26話:補強材料、あるいは安易なエスケープ
いまから私は、抱え込んで回避しようとして、それでも逃げ切れなかった犯人の自白的に補強材料を開示する。
なぜなら、安賀多先輩自身がそれを望んでいると言ったからだ。
そして、この依頼は完全に終わる。
「さて。それでは正真正銘、最後のフェーズです。ぼくがすることは、依頼人の要望どおりにこれまで隠してきた補強材料の完全な開示。それでもう安賀多先輩がぼくから得られる情報はなにもなくなる」
安賀多先輩は静かに、宮田はすこしだけ満足そうにうなづいた。
「まず例によって事前確認ですが、淡田彗星は離婚を決意したあとも、家族3人で住み続けていたという点はあっていますか?」
「あってる。わたしに両親が話したのが中2の終わり。最低でも1年はいっしょに住んでいた。わたしよりも前に母は聞いていただろうから、父さんはほとんど講演が終わってすぐ切り出したんじゃないかとは思うけど」
「ある種、異様ではありますね?」
「一般的な離婚の過程を知らないけど、窮屈な感じはあったよ。ただ、わたしへの配慮はあったとも思うからね」と安賀多先輩は言った。「わたしが母と住むのは、わたしが両親将来的に離婚するって話を聞いたときには決まってた感じだったんだよ。中高一貫校だったから、こっちの高校の受験準備は1年くらいはいると思ったんじゃない? だからある意味では必要な処理ではあった」
「安賀多先輩の将来の手続き的な話を考えて、実態としてはずっと前に離婚は決まっていたが、先輩の中学校卒業を待って離婚した」
「まあ、早瀬さんのことが父の頭の中にあったんだろうなとも思うけど」と安賀多先輩はすこし暗い顔で言った。「これが補強材料と関連するの?」
「いまの部分もそうですが、最後の1年も家族関係は劣悪だったとは言えないのも違和感がないですか?」
「ないこともない。まあ、わたしは当事者だから、正確に捉えられてない可能性はあるけど」
「早瀬莉子のことばを100%信じるなら――これは彼女が嘘をついたとぼくが考えているわけではないので、無難な前置きとしてですね。おっしゃるとおりに淡田彗星は離婚を切り出した段階では新しいパートナーはいなかったが、将来的な否定はしなかったと考えられます。黙認している可能性はわずかにありますが、『捨てた』のディテイルでお話したとおり、いまも先輩の母親は淡田彗星を憎んではいませんから、その可能性は低い。
そうなると、1年間最悪ではない状態で暮らしたということが今度はとても異様に聞こえませんか?」
「そうだね。とても」
「しかし、補強材料がここに加わると、安賀多先輩の母親の態度は理解はできるという評価になるでしょう」
安賀多先輩はなにも言わない。おそらくほとんど推測できているのだろう。
彼女の推測を私が確定させていっているだけだ。
ただし、私が補強材料が加わったとしても、なお異様であると思っていることを推測できているかはわからない。
「この補強材料の前提情報は淡田彗星の作家としてのこれまでの功績だけです。これを安賀多先輩が知らないとも思えないが、客観的に把握できているかは判断に迷うところですので、整理します」と私は言った。「彼は22歳のとき『花の散る季節のきみへ』でデビューします。これはフレーバー版のほうですね」
「あー、ありましたね! その名称」と宮田。
「覚えていてなによりだ」と私は言っておいた。「淡田彗星のデビュー作はそれほど著名ではありませんが、その後10年ほどは時代を代表する作家と言っていい。センチメンタリズムの水平を一歩も出ない確固たる信念でもあるかのように恋愛小説を描き続け、10年のうちに出せば売れる人気作家になった。これまでの総発行部数は7000万部とも言われます。国内最高クラスの作家と言っていいでしょう」
「客観的に見てね」と安賀多先輩はすこし居心地が悪そうに言った。
「ぼく個人の感想としては、言ったようにセンチメンタルの水平にずっといる作家ですが」といちおうの個人的意見を述べて、私は本題に入る。
「前提情報はこれだけ。淡田彗星は国内屈指の大作家である、ということだけです」
「そんな感じは本当にしないんだけどね」と安賀多先輩は言った。
「事実として20万部も30万部も売れたハードカバーの著作が何冊もある作家なんてそうそういないんですよ。賞の裏打ちまであるわけですから」と私は言った。「ただし、賞については淡田彗星にとっては負の側面もありますが」
私はいよいよ安賀多先輩に告げることになる。
「さて。補強材料のディテイルはここからです。
30歳をすぎたころ、大作家・淡田彗星のセンチメンタリズムの水平に転機が訪れます。
それまでの10年は半年待たずに出ていた本が1年以上出なかった。そして、その数年前から予兆はあったものの、1年ぶりに出した作品は極めて評価が低かった。
細かいニュアンスや葛藤は本人にしかわからないでしょうが、おそらく彼のベースは高校時代のこの部室にしかなかったということなのだと思います。早瀬莉子や場合によっては一部しばっさんと紡いだ日々が根底にあり続け、それをベースに実生活を吸収し、放出しながら進んでいた。だが、10年のうち徐々に限界が近づき、いよいよまずいと判断した。休めば回復すると思ったが、休んだ結果さらに落ちた。
まあ、そうだろうという程度の予想ですが。むしろ安賀多先輩のほうがこのあたりはよくわかるかもしれませんね」
「あんまり家では仕事についてしゃべらなかったからなあ……」
「まあ、確認したいようであれば、今度訊いてみてください。実際の淡田彗星の感覚は本題ではなく、重要なのは単純な経緯です」と私は言ったが、それができれば今日の依頼はおそらくないので、先輩は確認しないだろう。「早瀬莉子が言っていたミステリの話はここにつながります。限界を悟ったあと、淡田彗星はミステリを含む複数のジャンルに手を出して大失敗します。さきほども言いましたが、ミステリに関しては2作とも唾棄すべき愚作でした。つまり、彼の作家性は青春や恋愛というレンジの中でしか活きない」
「でも、その青春や恋愛もしんどくなってたって言いませんでした?」と宮田が尋ねる。
「メインジャンルは枯渇。ほかのジャンルは向いてない」
「いや、手詰まりじゃないですか!」
「だから、手詰まりだって話だ」と私は断言する。「彼自身は作家としての枯渇を認めたくないし、時代はすでに永遠の出版不況に入っているころで、出せば売れる淡田彗星に出版社も頼りたくなる。
結果、迷走を重ねる。
質は悪いので売れ行きも徐々に落ちていく。30代なかばから、彼の作家キャリアはずっと暗黒期だ」
「30代で……ずいぶん駆け足のキャリアですね……」
「デビューも比較的早いし、2作目からは基本的に何十万部の単位で売れたからな。大作家になるまで10年しかかかってないことのほうを褒めるべきかもしれない」と私は言った。
唯一、おぼろげどころかほぼ完全に補強材料を理解しているであろうしばっさんは、とくになにも言わず見守るつもりらしい。
壁にもたれかかって、目を閉じている。たぶん、寝てはいないだろう。
「暗黒期の最後、幸運であり不幸でもある事態が彼に訪れる。
それが5年前の著名な文学賞の受賞です。
彼はそのとき5回目のノミネートでした。他の候補と比べても実績には天と地の差があった。審査員ですら、明確に淡田彗星より読者から支持を集めている作家はいなかった。賞の主催にどれだけの意図があったかはわからないが、総じて大作家に賞をあげるほとんど最後のチャンスと捉えられていたと言っていいでしょう。
結果、落ち目で迷走しているのは本を読む人間ならだれでもわかるレベルだったのに、彼は受賞してしまう。
受賞したはいいが、この受賞で、決定的に彼のプライドは傷つくことになります。
賞の後押しがあって、受賞作は彼のキャリアで商業的に最大のヒット作になりますが、いまぼくが言ったようなことを世の批評家は婉曲的に言うか、直接的に表現するかしかしなかった。これが名作だという批評はただのひとつもない。いわば、商業的事情も勘案されて、ギリギリの結実が受賞だったことを自他ともに認めざるをえなくなったわけです。
これはつまり、彼のセンチメンタリズムの水平が枯れていたことを、彼自身がいいわけできないほど認めざるをえなくなったということでもある。
それから数カ月後、九生高校で講演をした時点では筆を折る、すくなくともかなり長期で休む気ではいたでしょう。図書室前の談話スペースでお見せしたインタビューの中に、創作意欲がなくなったという旨を語っているものがあります。受賞作のネガテイヴな評価も甘受するという旨も語っている」
「あ! 任せてください! 撮影画像をご用意しております! いつの間に? と思うかもしれませんけど、私もこれで優秀な助手をしてますからね!
『今回の受賞で作家活動というものにひとつの区切りがつけられたと思っている』
『売れたことは読者の評価なので嬉しいが、作品の出来とは別だという評価も的外れとは思わない』
このふたつですね!?」
「ご苦労。今日3度目のいい仕事だ」
「1回目もこれ読んだときだという点は、2回目を本気で褒めてくれたから見ないことにします!」と宮田はことのほか強くよろこんだ。「あれ、でも待ってくださいよ。『作家としての幅を拡げていい時期なんじゃないかと考えている』もさっきのミステリ云々のときのことですか?」
「そうだよ」
「じゃあこれ全部、補強材料のエビデンスじゃないですか! シデ先輩は補強材料としては一部だけで残りは保険とか言ってませんでしたっけ?」
「割合の問題だ。いまおまえが読んだ3つは補強材料を開示しようがすまいが提示した可能性がある。
見せたときにも言ったとおり、あくまでぼくにとっては保険だった。
3つのスクラップだけなら、捉え方によっては、早瀬莉子と過ごした時間から遠ざかるほど迷走しているとも言える。淡田彗星にとっての早瀬莉子がどれだけ重要だったか、早瀬莉子が充分に語れなかったときに機能する予定だった。まあ、充分すぎるほど的確に早瀬莉子が語ったので保険としては必要なくなったが。
だが、おまえが読んでいない4つめのインタビューだけは、作家としての変遷でもあるが、『捨てた』の補強材料としての側面のほうが強い」
「『今はかなり集中できてるんですよ。大江先生じゃないけど、レイトワークみたいなものかな。さすがに晩年ってほど年じゃないから第二幕とか言われた方が嬉しいけどね』。
復活してるからですか?」
「そうだよ。淡田彗星の暗黒期は終わっている。すくなくとも淡田彗星にとっては」
「ええー、でも早瀬さんが大事だったから、再会して復活した、って言えません?」
「たしかにそうとも言えるが、これも割合の問題だ。いまの早瀬莉子が淡田彗星を復活させた可能性を示唆している点が明確にほかとはちがう。思い出の中に生きている推進力としての『確定ヒロイン』ではなく、淡田彗星にとっていま現在の早瀬莉子そのものが優秀な伴走者として価値を持つことを示してしまう」
「それはもはや恋愛問題の枠からはみ出すから」と宮田は満足そうに言った。
「お気に召したかワトソン」
「まあ、私じゃなくて安賀多先輩に確認すべきですけどね!」と宮田は安賀多先輩のほうを見る。
「恋愛以外の要素があることについては、ほとんどわかってたよ。わかってることをわかってたみたいだけど」と安賀多先輩は言った。「受賞がよくなかったのは注目されたことで他者評価が自己評価と一致したからという意味で?」
「そうなります。大作家とはいえ、リアルタイムで追う熱心な読者の数はかぎられますからね。地位が確立されている作家相手におおっぴらな批判をする批評家もそうはいません。しかし、受賞が契機となって注目されればちがう。受賞作のヒットで、批評や感想が激増した。おのれの衰えのエビデンスが物量として増えたということです。
だれも淡田彗星のこれからに期待していないことが実態として淡田彗星を襲った、というわけです。
それが淡田彗星を作家として完全に終わらせるところまで到達した」
「作家として復活するために、父は家族を『捨てた』んだね?」と安賀多先輩はほとんど明白な推論を確定させる。
「一部だけを切り取って、とても恣意的に見ればそうです。まあ、一般にはそういう行為は曲解ということになりますが。
その立場から見れば、枯渇した彼の水平にファム・ファタールであり、伴走者である者がふたたび現れてしまったということも極めて有力な推論です。
ですから、ふたりの再会には作家性に関わるエピソードがある。たとえば、再会直後に作品について鮮明かつ的確に叱った、とかそういうエピソードならエクスキューズとしては無難なものになるでしょう。まあ、早瀬莉子が語った以上の再会のディテイルはそれこそ淡田彗星視点の話を本人に訊くのがいいと思いますが、この点はこれまでの謎のディテイルと相反するものではない」
「その言い方だと、それでもなお、主原因は恋愛感情だったときみは言いたいということ?」
やはり、こうなる。
安賀多先輩はこの道をとおりたくて仕方がないのだ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます