28話:まるで花の咲くような
いつもの私というなんの再現性もない経験論を述べるなら、では、と言って読書に戻っていただろう。
しかしいま部室には明確に解決の余韻が残っている。
「結果、どうだったんだ?」としばっさんは尋ねた。「補強材料は」
しばっさんにしてみれば、おそらく最上に近い結果だろう。
これで安賀多先輩が淡田彗星にすくなくとも当面のあいだは悪感情を持つことは考えにくい。
かりにそれが不当であったとしても、だ。
「どうですかね。やっぱり、補強材料あったほうがマシかもなあとは思う、かな」と安賀多先輩は困ったような表情で言った。
フェアネスを曲げ、単純なミスをし、アンコンフォータブルな状況に陥り、結果このザマである。
慣れないことなどするものではないというのは簡単だが、私は思ったよりもこのひどい結果に対して悲観的ではない。
余韻などとさきに述べたように、うまくいったとはまるで言えない過程であったにもかかわらず、不愉快だという感情はほどんどない(ただし、第4の謎のことを私は忘れていない)。
「きみはまたそんな顔をする」と安賀多先輩はすこし眉根を下げる。「だってさ、親の恋愛とか正直あんまりどうでもいいと言えばいいんだよね。
だからどちらかというとわたしが捨てたと言ったのは、恋愛以外あってもよくない? みたいなニュアンスだったと思うんだよ。これは本当にいまとなっては、って話だけど。
親の恋愛感情っていうのは、なかなか生々しすぎる。
まあ、莉子さんと父さんが結ばれるべくして結ばれたみたいなのは、母さんにはたまったもんじゃないだろうけど、わたしとしては、父さんの作家としての再起のためだって言われたほうがやっぱり心地はいいよ」
私がどんな顔をしているか、いま現在私が認知できていないというのは彼女には伝わっているのだろうか。
「きみが言うように、みんなお父さんのことは好きで、わたしも好きだけど。
それでも捨てないでほしかった。
って私が思ったのか、思うべきなのかは、結局のところ私にはわからないよ。単純な話じゃなさすぎる」
私には他人の本心はわからないから、先輩がそれを本当に言っているのかはわからない。
でも、かりにどう思っていたとしても安賀多先輩はそう言ったほうがいい。
つまり、複雑すぎてそれぞれの事情があるからなんとも言えない、というたぐいの意味内容がゼロの無難なエクスキューズだ。
「まあ、ぼくには先輩のディテイルの咀嚼にまで口を出すことはできないですからね」
「きみの思いやり? ちがうんだっけ? いや、否定はしてなかったか。まあ、そのような感情にはやさしさは感じてるよ。もしかしたら今日のきみのわたしの感情に対する選択肢の提示を数年後にめちゃくちゃ感謝することになるかもしれない」
ただ、いまは複雑になっているけど。
とは安賀多先輩は言わなかった。
「そういうのは明日以降のわたしに任せて、今日は恋愛だけじゃなかったってきみの言う甘い理解にひたることにする」
「それについては本当に、ぼくが言えることはなにもないです」と私は言った。
彼女はすこしだけ微笑んで、席を立つ。
「ああ、ひとつ最後にいいですか?」と私は立ち上がった安賀多先輩に向かって言う。
「なんなりと」と安賀多先輩は言った。
「先輩は淡田彗星作品をほぼすべて読んでますね?」
「読書は好きだよ。ただ言ったと思うけど全部ではないね。数冊は読んでないと思う」
「読書が好きなようには見えない素振りもしていましたが。まあ、ところどころにじみ出てましたけど」
「きみや柴田先生に比べればそうでもないというのは明白な事実だとは思わないかね」と安賀多先輩は笑った。「それに、とくにわたしの読書については訊かれなかったから」
完璧な信頼できない語り手としてのテンプレートである。
「もしかしたら安賀多先輩は悪いひとなのかもしれない」
「言わなかった? いいひとではないよ」と落ち着き払った表情で安賀多先輩は言った。
やはり、彼女との会話は不快ではない。本人の言に反して、とてもいいひとなのだろう。
このひとを振り回す淡田彗星はどれだけのものだというのだ、という気持ちは正直に言えばわずかにあった。
父親であるとは言え、露悪的に言えば自分を捨てた人間の事情をやさしく解釈する必要があるのだろうか。
「その部分は嫉妬だね」と第4の謎が言う。
結果、私が開示したのはとてもではないがキレイな結論とは言えない。
彼女は結局、父親に捨てられた納得をしてしまっている。
それはもちろん過去のことであり、動かせないことだ。対峙する必要はないのかもしれない。
でも、それならば安賀多先輩が傷ついたであろうという事実はどこへ行けばいいのだろうか。
彼女には選択肢がなさすぎる。せめて感情の選択肢くらいは。
「それは思いやり」と第4の謎が言う。
でも、私が望む結論もまた同様にロクなものではない。
あなたの両親の離婚はあなたの父親がほかのひとに恋をした結果です。
だいたい安賀多先輩がどう思うかはわからなかったし、当人はいま最低でも形式的に満足している。
「しかして俯瞰したときの実態は、きみのただの思いこみ。無様だね、名探偵」と第4の謎が言う。
だからこれは、私自身が受け入れるべき結果だ。
嫉妬や思いやりなどという感情は、かりに私にあったとしてももういまはないのだ。
「そして、手段と目的まで取り違えている。嫉妬も思いやりも結果でしかない。根源的にはそうじゃないでしょ? きみは嫉妬するために嫉妬したわけでもないし、思いやるために思いやったわけでもない。全部きみのいうところのディテイルであって、些事だよ」と第4の謎が言う。
第4の謎が言う。
第4の謎が言う。
第4の謎が言う。
第4の謎の独擅場だ。この私の荒野においてずいぶんな傍若無人さである。
「だってわたしに名前がつかない限り、きみは謎を解いたとは言えない」と第4の謎が言う。
そんなことはわかっている。
そして、すでにその有力な仮説はある。
ただ、あまりに荒唐無稽で実感がない仮説なので、思考するのもためらわれるだけだ。
「あ、そうだ。わたしもさいごひとつだけ訊きたいことあった」と安賀多先輩は言った。
「ぼくが答えられることならなんでも。もうなにも隠すつもりはないですからね」
「依頼じゃなくて、きみの趣向の話かな」と安賀多先輩はふだんどおりという風な表情で言った。「なんで父の作品があまり好きではないの? センチメンタルの水平がお気に召さないから?」
「淡田彗星だけでなく、会話文で女性がしゃべるときにワヨワヨ言う作品は好きじゃないんですよ」
「会話の語尾? それはジェンダーとかフェミニズムとかそういう話?」
「いいえ。ぼくはぼくというイデオロギーにしか与しない。リアリティの問題です」
「それで言うともはや『わ』とか『わよ』は文語なんじゃないの? 一人称小説だってリアリティはないじゃない? 日常のいちいちを長々と言語化しないでしょ」
「会話はエビデンスがあるが、一人称はエビデンスがないですね。ぼくが頭の中で本当にそう考えているかいないかは、究極的には証明できない」
「人間は嘘をつくからね」と安賀多先輩は言った。「じゃあ、きみの書く作品はリアリティを重視してワヨワヨ言わない?」
「いや、それだと売れないからぼくなら『わよ』って言わせますね。字面で男女の区別がつかないとしたら、あいまいな部分にいちいち『と安賀多先輩は言った』とか『と宮田は言った』書かなくてはならないので、鬱陶しいでしょう」
「そこでは商業的になるの!?」
「市場性がない商品というのは、根源的に問題が多すぎますね。金がないと選択肢が減るというのは、多くの先人が言っていることです。金がなくてもしあわせになれるというのは、金を持つことの否定にはならない」
「わからない。わたしにはきみはわからない」と安賀多先輩は明確に笑った。「まあ、いつかきみが作家になるなら、今日のことは書いてよ。父に書かれるよりは、きみに書かれたほうがいい気がするのよ」
「もしぼくが今日のことを一人称で書いたときには、『と安賀多先輩は言った』といまの部分には書かないことにしますよ」
時計は16時半。
下校時刻まではまだ1時間あるが、ほぼ1日は終わりかけている。
安賀多先輩は、わたしはすこしだけ部活に顔を出してくるよ、まだやってるはずだから、と切り出した。
「鴫沼住春くん、今日はありがとう。わたしはとてもきみに感謝している」
「礼はさっき聞きましたよ」
「英語では伝わらないこともある」
「英語で言ったのは先輩です」
「そうだね。ちょっと照れくさくてね。ただ、いまのありがとうはとくに照れてはいない」
「解決したのなら、なによりです」
「さようなら、名探偵」と安賀多先輩は笑顔と言えるかは複雑な、ギリギリ笑顔にカテゴライズはされるであろうといった程度に笑んだ。
その表情は美しかった。
割り切れない感情はまだ残りつつも、きっと彼女は笑った。
もしかするとこの世でもっとも善行を働いたのではないかという気持ちと、それでもなお彼女にとってこのディテイルは本当にふさわしかったのだろうかという気持ちが私に同居している。
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