25話:ダイラタンシー
「安賀多先輩は優しいから、いまいい感じでまとまってますけどね、シデ先輩」と宮田がぬるい雰囲気を切り裂いた。「それじゃ私は納得できませんよ?」
あるいはこれは私にとって救いなのかもしれなかった。
宮田はたしかに私に甘いが、甘やかす方向が安賀多先輩とはべつのようだ。
「なにか不足でもあったか?」
「わかってるくせに。よくないですよ、そういうのは」
「(C6H10O5)n」
「デンプン……? ……ああ、ウーブレック! 潤滑油には使えなさそうですけど」と宮田は笑った。「まあ、ダイラタンシー的ワトソンとしては、本当にこのままはぐらかしそうな気配は許容できませんからね。私、カンはいいんですよ!」
「ウーブレックは役割ではなく、宮田
「たしかに私はシデ先輩に能力的に大きく及びませんが、平均以下だとするのは侮りすぎです!」
「ぼくはおまえの不努力や言語化する気のない姿勢を咎めることはあるが、おまえの能力自体はたまにしか咎めてないだろ」
「私はまだまだ褒められ足りてませんよ!」と宮田は言った。「ちなみにですけど、そもそも安賀多先輩はすでに気づいてるんじゃないですか?」
「わたし?」
「はい。追い詰めておいて逃がすのは安賀多先輩なりの優しさかもしれませんが、今日はお客さんですからね。もっと図々しく依頼の全容解明を要求してください。咎めるところはちゃんと咎めるのが助手であります!」と宮田は極めて自然なトーンで言う。「シデ先輩、もうここまで揃ってるんですよ、エビデンスが! 恋愛感情だけだなんてことはないでしょ!」
「……わたしの両親の離婚について?」と安賀多先輩は確認する。
「両親の離婚、そしてこれからおそらく起こるであろう父親の再婚について、ですかね」と宮田はさらりと言った。
宮田に嫌な役割をさせてしまったという感覚はある。
ただ、こうなってみるとこちらのほうがずっといいとも思ってしまう。
まったく有能なワトソンだ。
ただしまだ褒めるには早い。なにしろ私にはまだ仕事があり、依頼は終わっていない。
「わかった。いいだろう。たしかにおまえの言うとおりだ」と私は認めた。「我ながら児戯に等しい」
「いや、そこまでは言ってないですよ! バランス悪いなあ……」と宮田は言った。「私が言いたいのは、安賀多先輩のケアをするのはシデ先輩の勝手ですけど、鴫沼住春があまりに弱々しくフェアネスを欠くのは私が許しませんよ? ということですね!」
「派手に欠けばいいというものでもないだろ」
「いや、恐る恐るリスクをとるシデ先輩なんてシデ先輩じゃないんですよ。まったくわかってない!」
「失敬な。ただまあ、一理はある」
そうだ。
私は鴫沼住春である。
宮田のことばは重い。弱々しく逃げるなどということが鴫沼住春にあってなるものかという主張は、私に私らしさを要求している。
私は私として完成しているのにもかかわらず、だ。
「うつつにうつつを抜かすからですよー」と荒野は言う。「最低限度のフェアネスが自発的にではないにしろ担保できそうなことは、助手に感謝したほうがいいと思いますよ」
反論のしようもない。
宮田の言うとおり、安賀多先輩がほぼ気づいていることは明白だ。
念のために私がしておくべきだった質問をいまさらしてみることにする。
「安賀多先輩に最終確認をするまえに尋ねるべきことがありました」と私は言う。「先輩は父親の作品について当人としゃべることがありますか?」
「たまにね。つまり、だから、きみが開示しない『補強材料』はそれに関わるものなんだね?」
「はい、お見事です」
「つまり、ほとんどもうわかっているということですよ」と私が言いそうなことを安賀多先輩は言った。
「まったく、予定外ですよ」と私は言った。「まあ、宮田がいい仕事をしましたね」
「やった、今日2回目じゃないですか!」と宮田は意外とシンプルによろこんだ。
そして、私はさらに尋ねる。
恐る恐る。
わー、恐る恐るだって、と荒野では歓声が上がっているが、それこそがいまは些事だ。
「では、補強材料を開示しますか?」
「ここまで来たらしてもらおうかな」と安賀多先輩は苦笑いした。
普段ならどこで気づくことができたのかという検討はもはや後悔の色すら出て不愉快ではあるが、検討には値する。
結論から言えば、安賀多先輩でさえも淡田彗星の創作の一助になっていることは、ままありうると言えた。
早瀬莉子はそうであり、安賀多先輩の母親はそうではないことは早瀬莉子の話から簡単に見えすぎた。
「捨てた」のディテイルで、信頼できない語り手の話をしたときに、彼女があきらかに読書家であることはわかったはずだ。
定期的に淡田彗星とは会っていることもすでに本人が述べている。
ただ、今日のぼくは補強材料をいかにして安賀多先輩に伝えずに済むかというアンフェア極まりないことに囚われていた。
バイアスまみれのクソみたいなミスだ。
じつに人間味を感じます、と私は安賀多先輩に言ったが、それがそのまま返ってきている。
子貢問曰、有一言而可以終身行之者乎。子曰、其恕乎。己所不欲、勿施於人。
安賀多先輩がなにを欲せざるか、私にはわからない。
ただ、ひとつだけ言えるのは、もし私がなにかを知りたいと思ったときには、枝葉か根幹かの判断など他人にして欲しくはないということだけだ。
己所不欲、勿施於人。
つまり、私は私の倫理においては思いやりを欠いているということになる。
すなはち。論理的に考えて、第4の謎は私に芽生えた「思いやりのこころ」などでは決してない。
我ながらいい確認だ。
私に世界が厳しくて反吐が出る。
さらにすこしだけ冷静になって、とても重要なことを私は見逃していることをはっきりと認識する。
もしこの顛末を私自身があとから見返せば、完全に不可思議のカルテだろう。
なぜこんなことにも気づかないのかと憤り、そしておそらく混乱していたのだろうという安いラベルを貼り付ける。
往々にして特別ではない出来事は安っぽくなるが、つねにだれもが特別なわけではない。
早瀬莉子の話を聞くことに積極的ではなかったことを思えば、自明だった。安賀多先輩は父親の離婚の詳細など、実際のところは欲していない。
彼女はずっと父親の気持ちを知るために行動している。
本当に淡田彗星本人が望んで自分を捨てたのか、繰り返し繰り返し問うているだけだ。
もちろん、どこかでそうじゃないと言ってもらうために。
彼女はそれが耳障りよければ積極的に騙されたいとすら思っている。
私と言えば、「安賀多瀬名がそのようにして自分を騙すことは、私にとってかぎりなく避けたいことがらだ。」などと述べているが、依頼者のニーズを100%無視している。
己所不欲(私はそうして欲しくないから)、勿施於人(安賀多先輩にもそうしない)。
などと言いながら。
しかしそれは私の勝手な決めつけだ。
他人の気持ちなど私にはわからないからだ。
「敗北の味はいかがですか?」と荒野は訊く。
私は応えない。
「通常は思いやりに該当するとは思いますよー。まあ、なぐさめですけど」
私は応えない。
「自分自身の期待にまるで応えられない気分はどうですか? ちょっとはあなたの言う歯ごたえらしい謎なんじゃないですか?」
私は応えない。
「黙り込むなんて、幼稚ですね。邪智暴虐などとのたまっていたころが懐かしくさえある」
いや、私は鴫沼住春だ。
私はいまだ、この文芸部部室に巣食う邪智暴虐な王だ。
たとえ怯えきっていたとしても、負けとわかっていても、紐解いてしまったものがたりの顛末は、私自身がつけなくてはならない。
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