24話:オーバーチュア

 早瀬莉子が去ったあと部室の空気を適切にあらわす表現はなにかという問いはかなり難しい。

 脱力感と残存する緊張感と表現することは、いちおうの正確性はあるが、適切とは言い難い。

 依頼の内容は形式上すべて解決できたのだから、もうすこしカタルシスがあってもいいはずだ。


「まあ、そんなに問い詰める気もないよ」と安賀多先輩は笑って言うが、私はに身構えてしまう。

「ぼくが意図的に補強材料を提示していない件についてですか?」

「そんなに大事なの、それは?」

「どうでしょうね。さらっと出せばよかったという後悔がないではない」と私は自らのミスを認める。


 ただ、ミスと自省したはいいものの、うまいやり方はいまのところ思い描けない。


「後悔してるんですか?」と宮田が尋ねる。「シデ先輩が?」

「もはや自衛に近いものがある」

「きみもすこしはポジショントークをするというのは発見だね」と安賀多先輩は言った。

「ぼくはフェアネスをなにより愛しています。とくに依頼者に対する情報提示に関しては。ただそうとばかりも言えないことがある

「でもたとえば、柴田先生は父側じゃない?」

「それはそうですよ。淡田彗星はこの教師のオム・ファタールです。彼が淡田彗星の味方なのは最初から明白ですし、その淡田彗星の選んだ早瀬莉子に対する評価も極めて高いのは必然です」

「でもきみは探偵ポジションのはずだ」

「はい。ですから、あなたはそれについて、怒る権利はおそらくある」

「でも、人間は権利のあるなしで怒りをコントロールしたりしない」

「至言ですね」

「つまり、わたしは怒ってないということになるけど、これはなにかの打算があるのかもしれない」

「またそういう偽悪的なことを言う」と私は言った。「権利で怒りをコントロールしないなら、打算でもしないでしょう。打算的な怒りはもはや怒りじゃない」

「ねえ、そこできみはわたしのことを偽悪的と言うけれど、露悪的なのかもしれないよ?」

「どちらでもいいですよ。ぼくにはその差異は認識できない」

「そこもそうなんだよねえ。だれだって他人のことはわかんないよ」

「だれだってというのは語弊があります。事実、わかると言っているひとは大勢いる」

「そのエビデンスは求めないわけ?」

「ふつうの会話にエビデンスを求めるのはヤバイやつですよ、ご存知だと思いますけど」

「そうだね」と安賀多先輩は笑った。「やっぱりきみはそうやって生きていくのかい?」

「通常、そのセリフはもっと批判的に聞こえてしかるべきだと思うんですがね」

「批判する意図はないけど、批判だと思ってもらってもかまわないよ、わたしはきみに嫌なことを言わないつもりはなんだよ」

「嫌なことを敢えて言うつもりもないでしょう? それが偽悪的だと言ってるんですよ、ぼくは」

「本当に他人を傷つけるのが趣味かもしれない」

「とんでもないひとですね。お父さんはエッセイでこんなことを言ってますよ。『私は善人であろうと思ったことは一度もないが、意味なく他人を害そうと思ったことも一度もない』」

「やっぱりきみ、うちの父親のファンじゃない?」

「いいえまったく。引用部分の価値観はかなり同意しますが――まあ、同意するから引用したわけですが。ぼくは淡田彗星のことを偽悪的でも露悪的でもなく、作家としては1ミリも評価していません」

「たとえわたしの父親でも?」

「似たようなことを今日すでに聞いているので、似たようなことばで返しますが、それがなぜ評価に影響すると考えたんですか?」

「わたしは意外と自信家なのだよ」

「全然意外じゃないですよ」

「感情であって、感情じゃないなにかがあるわけだよ、わたしにも」

「不思議と安賀多先輩の言わんとしていることはわかる気がしますよ」

「いや、それは感情に他ならぬ、とか擬古文調で言いそうな部分なのにね」


 それぎり、安賀多先輩はなにも言わなかったし、私もなにも言わなかった。

 そうなるとなにかを言うのはおとなの役割である。


「それで安賀多の疑問は解決したのか、それとも鴫沼を問い詰めるのか、どっちにする?」としばっさんは敢えてと言った風に呑気に尋ねた。

「正直に言えば、悩んでいます。鴫沼くんがなぜ開示しないのかがわからないから。もしかしたら、黙っていてもらったほうがわたしはしあわせかもしれない」

「まあ、俺にはそのへんはなんとも言えんからな」としばっさんは言った。

「でも、それとはべつになんですけど、柴田先生もよく考えると証言できると思いません?」と安賀多先輩は言った。

「俺?」としばっさんは心底驚いた表情をする。


 たしかに私もそうなるとは思わなかった。


「そう。父のことを話してください」

「まあ、なんというか、悪くとらないで欲しいんだが、おまえそんなに社交的な生徒じゃないよな?」としばっさんは回答せずに不適切な発言をする。

「おいおい、とんでもないことを言いますね」と安賀多先輩は笑った。

「2年のとき担任だったからある程度わかってるつもりだが、そんなガンガン来る印象ないんだよなあ」

「安賀多賢章の娘として見てるからですよ、たぶん」と安賀多先輩は言った。「学生時代、先生から見た父はどうだったんですか?」


 安賀多先輩はそのまま押し切るようである。


「賢章はふつうかな。友達はちゃんといるけどクラスの中心って感じじゃなかったな。最初からずっと文芸部で、2年までは成績もイマイチだったよ」


 そして、柴田哲朗は軽やかにしかし懐かしそうに語り始めた。

 もしかするとこの会話の流れは私への助けなのかもしれなかった。

 フェアネスに反しているが、すべてを開示しなくてもよいという空気づくりのための。


 さて、依頼者と犯人役にケアされる探偵が、私以外にいるだろうか?

 いや、いないだろう。


「個人的によく覚えてるのは、たとえば音楽とかかな。賢章はよく莉子とふたりでミスチルとかサザンとか聞いてたよ。おまえらからすると世代でもねえから全然刺さらないんだろうけど。

 ミスチルのアルバムで『蘇生』の前に『overture』ってイントロがあるんだけど、俺それ覚えたもんな。歌詞もないのに。部活のはじまりの合図みたいな。俺とあいつらだけのときにはたいていそうだったよ。ほかの部員がいるときはあんまりかけてなかったな。

 いまもそうだけど、部室に何人かいたらなんやかや会話するだろ? 賢章と莉子だけのときはほとんど会話がないんだよ。

 きっかりアルバム聞き終わるまでが創作時間です、みたいな世界があった。

 莉子は筆力自体はそれほどでもないのは正直全員わかってたと思うけど、3年のときの賢章はうまかったな。俺の若いころより全然うまかった。

 おまえらには信じられないかもしれないけど、俺だって同世代にはあんまり負けないくらいだったんだよ。文芸の世界じゃ見るも無惨に折られたけど、文芸部とかにいてちょっと小説書いてます、ってやつには負けたと思ったことはなかったな。

 でも、そんな俺から見ても賢章はうまかった。

『雲海』の61号を文化祭のときに出したんだけど、それに載ったやつを見て作家を再度目指すのはやめたな。

 まあ、プロになったのは賢章だけだから俺の指導力が高いとかそういう話じゃないんだがーーいや、鴫沼、おまえはおまえだよ。おまえについては俺もよくわからん。クソうまいかもしれないし、てんでダメかもしれない。枠の外だよ。賢章は枠の中での最上だったんだよ」

「シデ先輩はいちいちしばっさんを見ないでくださいよ!」と宮田が笑って言う。「いまは先生のターンです!」

「宮田が鴫沼に手厳しいのはめずらしいな。まあ、なんだ。いい関係だったのはたぶんだれも否定できなかったと思うよ。そんなに厳しい創作論とかは交わしてなくて、


『賢章さ、ここダルくなってない?』

『あー、どうだろ。ちょっとポップじゃないかも。先生に訊いてみなよ』

『あとで訊く。私はいまきみの感想を訊いてるんだよ』

『じゃあ、ポップじゃないよ』


 せいぜいそんな感じ。いや、いまのは声真似じゃねえよ。なんかわかりやすくしようとしたんだよ」

「そもそも私とシデ先輩は淡田彗星さんの声を知りません」と宮田は本当におかしそうに笑った。

「そうだけどな。まあ、気分だよ。気分。コンテクストで理解しろ。

 賢章と莉子はたぶん、趣味があってたんだろうな。

 鴫沼がたまに賢章に対して言うあれだよ、センチメンタルの水平。その世界にふたりはたぶんぴったり収まってたんだよ」

「最初から父さんはそんな感じだったんですか?」

「いや、そうでもない。さっきも言ったけど2年のときだよな。3年からは別人というか、簡単に言えば急成長だよ。コアは同じだけど、パーツは変わった、みたいな感じ。

 それまで小説もそんなに他の生徒と変わらなかったんだよ。ちょっと表現に神経質な感じはあったけどな。

 3年になって勉強の成績が上がるにつれて、とんでもない速度でうまくなっていった。

 そんなことが起きたのはあいつだけだけど、たぶんインプットが圧倒的に足りてなかったんだろうな。表現の選択肢がとてつもない早さで豊かになっていく感じがして、ああ、こいつはこのまま作家になるんだろうな、って思ったよ。

 すくなくとも最終的に俺よりはうまくなるって確信があった」


 その淡田彗星の転機となったイベントはおそらく天体観測だろう。

 ちなみに無粋なので早瀬莉子には言わないでおいたが、記録された天体情報から推測できるのは、ふたりで見たものは彗星ではなく流星群だっただろうということだ。

 ただしそのような些事について、テンペルとタットルもおそらく文句は言わないだろう。

 なにより、淡田流星群よりは淡田彗星のほうが無難かつ賢明な名付けに見えるので、早瀬莉子の功績のひとつとしてもいいかもしれない。


「鴫沼はオム・ファタール、オム・ファタールうるせえけど、たしかに俺にとって賢章が特別なやつだったってのは事実だ」としばっさんは言い終える。「でもな、莉子の話もそうだったと思うし、いまの話もそうだけど、俺たちの主観を除けば高校3年生の安賀多賢章は文章がうまいだけの成績がちょっといい生徒だと思って問題ないんだよ。だれにとっても特別な存在だったわけじゃない」

「ありがとうございます。よくわかりました」と安賀多先輩は静かにお礼を言った。


 さて。

 そうなると当然、つぎに来るのは私のターンである。


 早瀬莉子の話はディテイルとしては満足いくものだったように思う。

 早瀬莉子本人の性質がいいほうに影響したということはもちろんあるが、安賀多先輩との関係性をある程度もちつつ、ディテイルは開示するという点においては、おそらく完璧に近い。

 淡田彗星の恋愛話は数多いが、過去の恋心が再燃したという話は私の記憶する限りひとつもない。その願望を抱いていたということを淡田彗星は否定したかったのかもしれない。

 そういう微細な伏線もあって、ことは丸く収まった。


 しかし、1点だけ。

 彼女が恋愛感情だけで淡田彗星と結ばれたというには、彼女の話はあまりに理性的すぎたという問題がある。

 完璧だったがしかし、あまりに論点が明確だった。

 離婚の原因であることは否定しないが、離婚後に構築された関係であるということをあきらかにしすぎた。

 そのような理性にまみれた恋愛感情は、家族を捨てるに本当に値するのか?

 もちろん恋愛感情を100%否定することは困難だが、同時に100%恋愛感情だと言い切ることも甚だ怪しい(もちろん、私がそう言い切っているのは覚えている)。


 そういったイッサイガッサイの思考をまとめきれず、


「時間をもらって恐縮ですが、率直に言って、なにも決心できていません」と私は素直に言い切った。「やはり安賀多先輩の選択によりますよ。ぼくにはどう考えても決定権はない」

「でも、ふだんのきみは依頼者がなにを知るかということにあまり関与せず、依頼者の理解度合いに応じて可能なかぎりの量を情報をフェアに渡していく。そんなスタイルだろう?」

「客観的に見ればそうでしょうね。主観としては依頼に合わせたケース・バイ・ケースですが」

「しかし今回は補強材料関連を意図的に秘匿してわたしに伝えている。自然に私に伝わりそうな場合でもね。たとえば、早瀬莉子さんや柴田先生が語るかもしれない場面だけど、こういうところは事前に打ち合わせたり、さきに情報を詰めて回った」

「それについては弁解しません」と私は言う。

「ではそれはなぜかな、名探偵?」と安賀多先輩は言い切った。

「安賀多先輩にして欲しくない理解の仕方があるから、ですね」

「じつにわたしに寄り添っている」と安賀多先輩は言う。「まあでも、それならわたしに全力で味方するっていう選択もあった気がするけど」

「フェアネスを無視し、ファクトを捻じ曲げて伝えてほしかった、ということですか」

「それが一般的に言うお姫さま扱いってことじゃない?」

「それはもし次回があれば考慮しましょう」

「大学生編?」

「すいません、言っておいてあれですが興味がないです」

「でしょうよ。でもね」と安賀多先輩は笑った。「Thank you for your fairness.」

「You’re welcome, though I’m not sure if my fairness saved your world. 」

「一定の効果はあったと思ってるよ」

「なによりです」と私は言った。「ただし、それはたまたま先輩がそう捉えただけで、ぼくがしたことは自身の思考に基づいて情報を隠匿しただけですよ」

「わたしにして欲しくない理解の仕方があったからでしょう?」

「さきほどそう言いました」

「それでなおいま、開示をためらっている」

「そうです。ぼくにはじっさいに先輩がこの情報を得たときにどう思うかわからない。大きく後悔する可能性があると考えてしまっている」

「なるほど。つまり、きみはわたしの気持ちを考えてくれたわけだね」

「そうなりますね。ぼく自身にとっても不思議なことですが」

「前にも言ったけど、それは通常、思いやりと呼ばれるよ」


 子曰、其恕乎。


 第4の謎がちらつく。その名は思いやり? いや、そうではないような気がする。

 安賀多先輩のそのことばは私にとって甘い。

 私は(荒野などではなく)私自身に問う。

 思いやりということばは、私のフェアネスの欠如のエクスキューズたりうるか。


 もちろん、否である。


 安賀多先輩はおそらく、私が決定権を預けながらも、そのじつ話したくないと考えていると判断したのだろう。

 それなら、聞かなくてもいいよ、と言ってくれているのかもしれなかった。

 私はこの甘い裁定に甘えることができるし、自分でもまだわかっていないがそうするつもりなのかもしれない。

 現状で私は甘性だの甘情だのをいっさい廃してきたと称するだけの甘違い野郎だ。

 そんなことなどできはしないのに。


 甘のいい後輩が、私を見ている。

 結局、こいつもべつの方向で私に甘いのだ。


 甘、と野球部がボールを打つ音がした。

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