22話:過去のすれ違い3

「鴫沼」としばっさんが私を呼んだ。

「なに?」

「なにじゃねえよ。黙り込んだから動作確認だよ」

「オールグリーン」

「なによりだ」

「ひとまず、早瀬さんと淡田彗星の感情的関係は、現在と過去のあいだにがあるのはまちがいないと思いますよ」

「それはシデ先輩的にはそうだと思うんですけど、安賀多先輩の感情的にはどうですかね……?」と宮田が言った。

「すくなくとも早瀬さんの証言の整合性は極めて高い。早瀬さんが『彗星』を書いて差し替えたその瞬間、確実に恋は終わった」と私は断言する。


 早瀬莉子も静かに首肯した。

 しかしなお、安賀多先輩の表情は自身が緊張と疑念のあいだにいることを示している。


「じゃなくて、精神的な話ですよ! シデ先輩の苦手な! 早瀬さんと淡田彗星さんが、高校卒業後に会ってなかったっていうのはだれでもわかります!」と宮田は言った。

「気持ちもすくなくとも早瀬さんの中では終わってるだろ。『彗星』は応援歌であり絶縁状だぞ」

「いや、絶縁状までの強い気持ちはないよ」と早瀬莉子は笑った。「結局のところ、安賀多くんは有名作家になっちゃったし、私にも生活があるわけだからね。20年については、お互いがお互いのことなんて気にせずに自分の人生を生きたってだけ」

「安賀多先輩!」と宮田は言った。「多少は言いにくくてもたぶん平気です! シデ先輩がなんとかします」

「宮田さん、そもそもここでなにを言ってもなにも起こらないだろう?」と早瀬莉子は極めて柔らかく笑った(つもりなのだろうが、結果的にはすこし過剰な笑顔すぎた)。「なにを言われてもいいと思って来てるわけだからね、なにを言ってくれてもいい」

「……『確定ヒロイン』のことが引っかかっています」と安賀多先輩は言った。

「ネットでたまに言われてるスラングみたいなやつね。それが私ってこと?」と早瀬莉子は言った。「まあ、そう見えるか? んー、見えるかなあ……。私ってそんなです? もしかして私が理解してない? なんやかや結ばれるヒロインのことですよね?」

「意味はあってるよ」としばっさんは言った。「俺の客観的じゃない意見を言うなら、莉子だなあと思うことはある」

「えー、そう見えてるのか私。だいたい結ばれてないしね。でも、それはたしかに瀬名さんにとって穏やかじゃない話ではある」


 たしかに安賀多先輩の主張する1点のみを焦点にするのであれば、精神的に断絶していなかったと言えないこともない。


「それはおそらく、淡田彗星にとっては不可分だという話です」と事態を進捗するすべを持たない私は言った。「極端なことを言えば、モデルになった人物と現在の関係が険悪であったとしても、作品に登場する場合におそらく影響しない。アーカイブから登場人物として関係であったときのことを引っ張ってくるという話なんでしょう」


 とりあえず説明はしたが、説明すべきものなのかもわからない。

 一般的には早瀬莉子と淡田彗星の関係は断絶していたと言いうる。

 これで納得しないと言うのは聞き分けがないというレベルのものだろうが、これは安賀多先輩の気持ちの話である。


 どこかで安賀多先輩自身が折り合うしかない。

 どちらかと言えば、私にとって喫緊の問題はその先にあるであろう話題である。


「私は安賀多くんとは卒業してから20年くらい会ってない。交わることはずっとなかったというのは何度でも言っておくよ。たとえば子育てしたんだろうなってエピソードが結構最近出てきたりしてるから、経験した時期と書く時期は必ずしも一致しないというのは鴫沼くんが言うとおりだね」と早瀬莉子は言った。「安賀多くんにとって生活と創作って不可分だと思うんだよ。彼の実生活における経験は、すべていつか創作に使う可能性がある」

「では、すれ違いがあまりにスムーズに解消されたのはなぜですか?」と安賀多先輩は絞り出すように尋ねる。

「それは連続はしてないんだよ。断層の上に積み上がっただけ。高校時代のベースがあったからスムーズだったというのはもちろんそうなんだけど。私たちの恋愛というのは高校卒業のときに1回終わった。これは確実。すくなくとも、私にとってはね。大学出てすぐ結婚して、子どももいる。いま大学2年なんだけど薄情なやつでね、もう1年くらい顔見てないんだけど。だから、本当に高校卒業から20年のあいだ、私と安賀多くんにはなんの関係もなかったよ。私は同窓会も行ってないし、文芸部のOB会のときも顔出してないしね」


 おそらく、安賀多先輩も含めた全員が堂々巡りをしていると感じただろう。

 新出の情報はなにもなく、ディテイルの表現が変わっているだけだ。

 私が世界をディレクションしていいなら、直前の私と早瀬莉子のセリフは全カットするだろう。


「それは賢章も出たことがないぞ」と見かねたのかしばっさんが言った(淡田彗星についてだったので反射的に言ったのかもしれない)。

「それは行きにくいと思いません?」と早瀬莉子は笑った。

「あの、でも、早瀬さんは、そこまで父を避けていながら、なぜ講演には行ったんですか?」と安賀多先輩は話の流れを無視して尋ねた。


 さて。

 つまり。

 安賀多先輩が納得したのかは不明瞭ではあるが、明確な進捗は生まれたわけである。

 私にとって本格的にナイーブな話題に入る。


「だから、会わなかっただけで避けてたわけではないんだけど……」と早瀬莉子はやや困惑した様子で言った。「と言ったら納得する?」

「どうでしょう。そうならそうだと思うかもしれません」ときっぱり安賀多先輩は言った。

「8割くらいはたまたま。これは本当。あと2割はひとこと言ってやらないと気がすまないくらいのテイタラクだったから。賞もらったで人生のゴールみたいな空気出してるのが気に食わなかった」

「父さんの作品の出来の話ですか?」

「まあ、作家・淡田彗星についての話と言ってもいいけど。調子が悪いとかではない感じだったからね。もっと長いスパンの話で、言ってしまえばなにを老け込んでるのかってことだけど」


 こういう証言で気持ちの配分を信じてはいけないというのは経験則に入るだろうか。

 ほぼ100%気に食わなかったから、という情報が私には伝わった。

 安賀多先輩もおそらくそれに近しい情報だと理解しただろう。

 つまり、つぎの安賀多先輩の発言が、分水嶺である。


「そこに柴田先生はいたんですか?」


 ああ、か。

 私は少々驚いたが、たしかに安賀多先輩にとっては、しばっさんがその場に関与しているほうが問題になる。

 当然のように考えうるべきことだ。推論とすら呼べない当然の帰結だ。

 初歩的なミスと言える。私はすっかりその可能性を落としていた。

 荒野で陰口をたたかれる前に自分で断じておこう。


 無様である。


「いや。そもそも先生には行くこと言わなかったし。安賀多くんが、講演終わって帰ろうとしたら声をかけてきた。壇上から見えたって。で、私が叱った」

「えっ!? いきなりですか!? なにを叱るんですか!?」と宮田が思わずといった風に言う。

「それはそのころの作品の出来以外なくない? 結構キツめに言ったよ。まあ、よく考えると20年ぶりだったのにひどい再会だったかもしれないけど」


 動かなかった。

 仕方なく早瀬莉子はことばをつなぐ。


「それからはまあ、中年の恋愛話を聞きたいと言うならある程度は話すけど……」


 安賀多先輩はこちらを見る。


「そこには先輩が求めるものはなにもないと思いますが、どう考えてもプライベートにすぎるので、必要ならぼくは席を外しますよ」と私は言った。

「いや、わたしもそう思う」と安賀多先輩は言った。「それは父と早瀬さんの話だから具体的なことは話す必要がないと思います。ただ、その断層の上の恋はいつからの話かだけは訊いてもいいですか」


 多少の痛みはともなうだろうが、適切な情報取得であろうとは考えられる。


「もうこの歳だしね。正式に交際をしたのがいつからかっていうのは難しいところだけど……。息子の大学入学のときに東京に行って、そのときに安賀多くんと3人で食事するか悩んで結局しなかった記憶があるから、ちょうど2年前は微妙なラインだったと思うね」

「両親が離婚したのはわたしが中学3年生の終わりです。だから、ちょうど3年前」と安賀多先輩は言った。「講演が4年少々前ならそこから1年くらいあとの話になります」

「まあ、連絡はしてたけど恋人ではない期間も半年くらいはあると思うし、結局のところ関係値なんてグラデーションだから、きっちり時間を切りわけるのは難しいかもれない」

「離婚から早瀬さんがおっしゃるグラデーションの50%付近までの1年のあいだに父は早瀬さんに離婚のことを伝えたわけですよね?」

「そうだね。さいしょは柴田先生から聞いたかな。私と安賀多くんは再会したとき連絡先交換してなかったからね。もしどちらかがどちらかに連絡したかったら、柴田先生しか仲介者がいない」

「連絡したら莉子が連絡先を教えるのを断ったんだよ。それで離婚したことを伝えた」と多少バツが悪そうにしばっさんが答えた。「賢章がどういうつもりで莉子に連絡したのかはわからなかったからな」

「べつにそこで口説かれたわけじゃないですけどね」


 断言するが些事である。

 中年の再会とそのロマンスというあまり興味のわかない装飾がされたディテイルがそこにあった。

 おあつらえむきにそのように話されていると言ってもいいくらいのヒキのなさである。


「まあ、とかく。私は安賀多くんが離婚したそのときは、正直に言ってしまえばあんまり興味もなかった。私は講演の前に離婚してたんだけど、すくなくとも講演のときは恋愛対象だと思って話したつもりはなかったね」

「それなら、早瀬さんとの再会と離婚はあまり関係がないと言っていいですか?」と安賀多先輩は尋ねたが、ほぼ確実に否定される質問をした意図は不明瞭である。

「いや、そこに関しては講演で再会したからだとは思うよ」と早瀬莉子は案の定、言い切った。「離婚前になにもなかったって言うだけで、そこの責任を避けるのは私に都合がよすぎるね。結局、私も安賀多くんも講演のときの再会でわずかとはいえ意識し合ったのはどうあっても変えられないと思う。私が安賀多くんの離婚まで安賀多くんを恋愛対象として見なかったのは、どちらかというと自身の問題なわけよ。だから私は安賀多くんの離婚後は拒んでいないわけだし」


 ふたたび出会ってしまった罪。

 とでも言えば多少はポエティックに聞こえるかもしれないが、しかし、安賀多先輩にとっては喫緊の課題である。

 なんとかして咀嚼したいと考えているのだろう。

 甘いことばがあれば、おそらくそれをエクスキューズにしたいのだ。

 だから、だけど、それゆえに。

 私はこの依頼の補強材料を秘匿したいのだ。


 ――安賀多瀬名がそのようにして自分を騙すことは、私にとってかぎりなく避けたいことがらだ。

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