21話:過去のすれ違い2

 恋の終わりはいつか。

 定義としてはそこそこ難しいようにも思われる。

 一目惚れということばがあるので例外はあるが、たいていの感情はグラデーションで、多くの場合に軸は時間である。

 その1点が絞れるということは、恋の当事者が具体的にアクションを起こす必要がある。


「簡単に言うと、私が大学に落ちたから、高校生の私と安賀多くんの恋は終わった」と早瀬莉子は自分の恋の終わりをそう定義した。

「早瀬さんはそのだったことは、『彗星』には込められているメッセージを考えても自然です」と私は返す。

「え、私の書いたのも読んでるの? いやまあ、そうか。部誌あるもんね」

「我々がどこまで知っているかも含めて、我々が理解している時系列を整理しておきます。

 まず淡田彗星が『春の咲く季節のきみへ』を書き、早瀬さんが『彗星』の前に掲載する予定だった原稿を書く。

 本来はそこで終わりのはずだったのですが、淡田彗星は早瀬さんの不合格を受けて急遽『花の散る季節のきみへ』に原稿を差し替えた。

 早瀬さんは差し替えられたものを読んで柴田先生に元原稿を見せてもらい、『彗星』を書き、もともと掲載予定だった作品と差し替えた。ということで間違いないですね?」

「相違ないね」

「早瀬さんにとって『花の散る季節のきみへ』は不満足だったというのはすでに言及されていますが、それは作品の出来だけの話ですか?」

「まあ、おおむね?」と早瀬莉子はそうでもなさそうに言った。

「あるいは、自分と淡田彗星の特別な日々を記したとは言い難いと考えましたか?」

「そこまで思ってなかったようには思うけど、出来栄えだけじゃなく内容にも不満があったのはたしかだ」

「早瀬さんには淡田彗星のファム・ファタールとしての自覚はあったと思いますよ。確信はしてなかったのかもしれませんが、そのあとの淡田彗星のバイオグラフィーを考えてみればそれなりに説得力はあると思います」

「どうだろうね。気持ちを確認してない恋の話はとてもあいまいだからね。好きあってはいただろうというのはそうだけど。それほど劇的なものかはわからない。私の認識ではただの高校生の恋が終わった、ということだよ」

「あなたが書いた『彗星』は基本的には夜に学校のグラウンドで星を眺めた話ですが、最終的にはその男女が明確に道を違えて、『そして二度と交わらなかった』とまで書いてあります。


 あなたは頑張って、私はいないけど。


 そういうメッセージ以外にはなにも読み取るものはないでしょう」

「それだけのことしか書いてないからね。あとべつに私は作品がうまいわけじゃないから、そういう大上段に構えて作品っぽく扱うのはやめてくれると助かるね」

「善処します。ところで、星をふたりで見たのはいつですか?」

「なるほど、恋のはじまりがそこだと鴫沼くんは思うわけだね。まあ、当然そうなるとも思えるかもしれないが」と早瀬莉子は言った。「高2の冬。ふたりでというのはすこし経緯に誤解はある。たまたま夜の学校のグラウンドで会っただけだよ。安賀多くんも私も友だちと来てたし。具体的になにがあったかは木戸銭もらっても言わないけど、そこからお互い意識してたってのはそうだと思う。すくなくとも私はそうだ。

 ただまあ、それまでも私も安賀多くんも文芸部員としてはそこそこ真面目だったから仲はよかったんだけどね。1年のときもクラス同じだったし、一般的に言っていちばん親しい異性の友だちだったよ」

「つまり徐々に、ある始点から時間をかけて淡田彗星と早瀬さんは惹かれ合っていったわけです。そうするとディテイルとして不明瞭な部分が出ます」と私は言ったが、実際のところそのディテイルはどうあれ、結果的にはそうなったので些事ではないかとも思っていた。「つまり、浪人して1年後に早瀬さんが早稲田に行き、そこで再会してなんの問題があったのか、ということです」

「知りたいのなら話すけど、昔の話よ、ということだけは言っておくよ」と早瀬莉子は前置きした。「あと、その質問が出るということは、そのあとの私のこともわかってるわけだよね?」

「1年浪人したあとで早稲田には行かず、九州の大学に行ったということは柴田先生から聞いています」

「早稲田に受かったかはわからないから、能動的に行かなかったわけじゃないけどね」

「受けてないだろ」としばっさんが言った。

「まあ、東京に行く気が全然なかったですからね。親は浪人するなら国立に行ってって言われてましたし」

「そこですね。なぜ早瀬さんは完全に引いたのかが開示されていない」

「開示と言われると仰々しいけど」と早瀬莉子は笑い飛ばす。「まあ、18歳の少女の臆病な話だよ。自分で言うのは小っ恥ずかしいけど」


 すこしだけ話すのを躊躇う素振りは見せるが、早瀬莉子の表情はずっと穏やかだった。

 本当に過去の話なのだろうし、そもそもいま淡田彗星のパートナーは彼女なのだ。

 おそらく、つらいままの記憶ではなく、本当に照れているのだろう。


「私はただ、怖かっただけだよ」と早瀬莉子は言った。「鴫沼くんは作品にも厳しいって聞いてるけど、『春の咲く季節のきみへ』をどう思った?」

「ラブレターでしたね。出来がすごくいいだけの」

「言いえて妙だね。私は言ってしまえば当事者だからね。きみたちが思ってるよりもずっと大きく感情が動いたわけよ。たぶんいまでも人生の中で読んでいていちばんうれしい文章だった。明確に私だけに向けられて書かれた出来のいい作品があるのって、もしかして世界一しあわせじゃない? みたいな。まあ、天に昇ってしまったわけよ」


 その感情はもちろん推測できるわけだが、しかし。


「でもまあ、ご存知のとおり私は落ちてるわけよ。数週間後には安賀多くんがいない生活が始まる。現実に叩き落されることになる。

 世界一しあわせじゃない? って思った何秒か後にそうなったんだから。その落差は私にとってはとても大きなダメージになった。

 たとえば私のいない1年のあいだに安賀多くんがほかの子と付き合ってたらどう? 付き合うまではしてなくても、私との感情を天秤にかけられるほどほかの子と関係性を構築していたら?

 頻繁に連絡を取り合えばとか、安賀多くんとのここで過ごした日々がそんな価値なのかとか、いろいろ言えるけど全然それは実感がないじゃない。

 安賀多くんは待つつもりで原稿を差し替えたのは疑わなかったけど、それでも、そのとき、その瞬間、私と安賀多くんは思い合っていたとして、1年後のなんの保証にもならない。

 ひとの気持ちは変わるものだし、物理的な距離はアクシデントが多すぎる。

 そのしあわせな気持ちを信じて1年頑張ることはもちろんできたと思う。

 でもその1年後は確定してない。

 これっていろいろ取っ払って言っちゃえば安賀多くんのことを私が信じられないということじゃない?

 安賀多くんはなにも言わずにすなおに応援してくれたわけだから。

 そこで糸が切れたわけ。

 あとは簡単だよ。浪人するんだから受験に集中したほうがいい。安賀多くんにも安賀多くんの新しい生活がある。親の勧める大学もちがう。そういうのが一気に来るわけよ。

 まあ、いまだったらべつに安賀多くんが1年のうちにだれかと付き合ってることくらいはあるかもしれないけど、そのときはそのとき。いま好きなら早稲田目指しなさいよ、って言うだろうけど」


 早瀬莉子はそこまで言うとにっと笑った。


「まあ、昔の恋の話はこんなものかな。取り立ててめずらしくもないと私は思う」


 たしかにそれはそうだが、それに同意してはダメだと経験則どころか本能が言っている。


「すれ違って、掛け違って、食い違って、行き違って、思い違って、なんとなくどこかに行き着くんだよ」と早瀬莉子は言った。「だから後悔はないものとして生きてるわけだけど、敢えてひとつだけ後悔を挙げるとするなら、『春の咲く季節のきみへ』は読まなかったらよかったよね。あれが飛び切り出来がいいのがだいたいぜんぶいけない」


 結果、だれもなにを言っていいのかわからないという性質の沈黙が訪れた。


「まあ、あれだな。なんて言っていいかわからんな」としばっさんが仕方なしに言った。

「もうずいぶん昔のことですよ。いや、今日は昔のことをしゃべるんだろうな、と思って来たんだけど」

「十年をひと昔むかしというならば、この物語の発端ほったんは今からふた昔半もまえのことになる」としばっさんは苦し紛れに引用を試みたが、あまり私のゾーンに入っていない作品からの引用だったので触れないでおいた。

「まあまあ空気は重いけど、おばさんとしてはそういう場面でもないと思ってるんだけどな」と早瀬莉子は言った。


 ただし、彼女の認識はまちがっている(ということは彼女も言ってみたものの理解しているだろう)。そういう場面である。

 なにしろ、宮田ですら入るタイミングを見かねている。


「ぼくとしては、その関係性の断層については詳らかになったという認識ではいますよ」と私が今度は仕方なしに言う。

「アウェイ感は拭えない中ではまあまあな独白でしょ」と早瀬莉子はちょっと茶化して言った。

「アウェイか?」としばっさん。

「アウェイ感ありますよ。そりゃね」と早瀬莉子は言った。「先生は私のことを信頼しすぎなんですよ。もうおばちゃんなのに、無理させるから」

「ぼくはとくにどのポジションも取りませんけどね」

「中立的な探偵?」

「というよりも、ぼくはあなたになにかイメージを持つ立場にないです」


 早瀬莉子は笑って、「まあ、それはそうだ」


「まあ、なんと言うのかな。父としての安賀多賢章については瀬名さんが評価を決めればいいと思うのだけど」と早瀬莉子は続けた。「作家としての淡田彗星については、よくやってきたと私は思ってる。大作家に対してちょっと偉そうではあるけど」

「私生活については多少脇が甘くとも作家として成功しているからいい、という主張ですか?」と私は敢えて尋ねる。


 もちろん、そんなことはだれも言っていない。

 我ながら典型的なストローマン論法である。あるいは意図的な誘導。フェアネスの欠如。

 なんと呼ばれても仕方あるまい。


「醜悪ここに極まれり、ですなー」と荒野はもちろん囁く。


 しかし、私は淡田彗星に嫉妬する者である。

 このくらいの詭弁はお手のものだ。


「ねえ、たとえば鴫沼くんが本気で創作をした場合に安賀多くんより著名な作家になるかどうかというのは判断が難しいところではあるよね? きみくらいの才能の持ち主が本気でそれだけをやってみたときには、そうなる可能性は低すぎることはないとは思うけど、ただきみはそれをやらないでしょう?」と早瀬莉子は私の詭弁を相手にしないという素振りで尋ねる。


 ただ、ほぼ確実に相手にしないという素振りだけで切り込むであろうことはわかる。

 なにしろ、私が手ぬるいにもほどがある詭弁を述べている。


「ぼくは明確に才能を持っている分野がありますからね。才能がそれほどでもない分野はわかりますよ。ただ、それを置いておくとしても、真剣に創作に人生すべてを使うかと尋ねられれば否です」と私はこれまた我ながら手ぬるくぼんやりと回答する。

「安賀多くんはもしかするときみに書く才能で劣ってるかもしれない。ただ、それでも全部を賭けられるんだよ。起きてるあいだはほとんど全部作品のことを考えて生きている。なにをしててもメモリの何割かはつねに捧げて生きてるんだよ、彼は。書いてるものは牧歌的だけど、そういう人生のベットの仕方をしている。これはとても大胆な選択だと私は思うんだよね。なによりとんでもないなと思うのは、高校生のときからそうなんだよ。まあ、売れてなかったら経済的な事情があるからどうなってたかはわからないというのは、そのとおりだとは思うんだけど、かりに売れなくても身持ちを崩す程度までは突っ張っただろうことは想像に難くない」

「一定の評価はしているつもりです」と私は述べた。

「え、してた……?」と安賀多先輩が余計なことを言う。

「ぼくなりには」

「私はきみの作品を読んでいないが、きみは安賀多くんに嫉妬もしないし、憧れもしないんだろう。そういう感じがいっさいない。きみからはただただ実直になにかを守ろうとしている感じを受けるんだよ」と早瀬莉子は言い切った。「もちろん私はきみのポリシーを私は知らないわけだけど、きみの倍以上生きているからね。若者がなにをしたいかくらいはなんとなくわかる」

「いささか承服はしかねますが」

「言ってしまえばね、きみの意地悪な指摘というのは、聞こえの派手さに反して安賀多くんに対する敵意がいっさい感じられないんだよ。だからつまり、それはフェイクでしかないね」

「まあ、鴫沼も莉子もそのへんでやめておけ」としばっさんは今日初めて私をたしなめた。


 見抜かれてる。ああ、見抜かれてる。これだけ寄せればそれは見抜かれる。無理やりすぎるからそれは無理が出るだろ。


 荒野では全員による陰口合戦が行われている。もはやだれがなにを言っているのかは確認すらしたくない。

 じつに不快だ。


「実生活と創作は安賀多くんにとって不可分だけど、彼が実生活をないがしろにしているわけではないよ、という話だね」


 ぼくだって嫉妬くらいしますよ、と言ってみてもよかった。

 そうやって私は私を騙そうとは企てたのだ。


「いやー、あのー、再三無視しているのにつづけるからそろそろ見苦しいので少々よろしいですかー」と荒野が口を開いた。「自分を騙そうとするのは結構ですが、あなたはとても理知的でいらっしゃる。その程度では自分は騙せませんよ」


 なるほど、結構なことだ。

 私はどうやら失敗したようである。

 もちろん第4の謎は淡田彗星の呪いや嫉妬などではない。オカルトが私の荒野に巣食うことなどありえないというのは私自身が完全に自覚していることだ。

 ただそれを曲げてでも自分を騙してみたくなっただけだ。


「いや、淡田彗星の呪いとか、さすがにだれも騙せないでしょ」とぼそりと第4の謎が言った。

「どう考えても嫉妬なんかするわけないしな」と『過去のすれ違い』が言った。

「嫉妬は本当に一部だけなら、当たらずともなところはありますけどねー」と荒野が茶化して言う。


 たしかにそのとおりだ。

 私は淡田彗星に創作で勝てない。そんなことはわかりきっているし、そういうことだってある。

 それで言えば釘嶋くぎしまは私よりずっと足が速いし、金勢かなせは私よりずっとモテるし、さっき会った高鳥こうとりは私よりずっと人望があって面倒見がいい。

 それと同じことだ。私より小説を書くのが抜群にうまい人間がいる。たったそれだけのことだ。

 その程度で私が嫉妬することなどありえない。考えればわかることだ。


 私は総体としての私として完成されている。

 比較的なにかが劣るからといって、それは欠点でさえないことも大いにありうるし、必ずしも補う必要はないのだ。


「これでまたふりだし。児戯だね」と第4の謎は(おそらく)すこしだけ苛立って言った。「もうほとんど自覚してるようなものだと思うけど。本当にまだなににもまったく気づいてないのだとしたら、王さまは裸だよ」

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