18話:教師の隠しごと6

「とりあえず、『確定ヒロイン』の件については、まだ気になるようであればこのあと本人に訊いてください」

「いや、訊けるわけないですよ!」と宮田は言った。

「早瀬莉子の人物像は告げたと思うが。そもそも話す可能性すらある」

「ええ!? そんなことするのシデ先輩くらいですよ」

「そもそもぼくはおそらく早瀬莉子のような恋愛をしない」

「若いうちにそういうことを言って後悔してる大人は多いぞ」としばっさんが言った。

「ぼくを統計内に入れ込もうとする挑戦は歓迎しよう」と私は言う。「ただし、我々はいま、濡れた原稿について話す必要があるからまた今度受けることにする」

「シデ先輩が閑話休題してる!?」

「時間がな」と私は13時半になりそうな時計を見て言った。「それにしばっさんもそろそろしゃべりたいだろう」

「もったいぶるほどじゃないからな。おっさんの告白は」としばっさんは言う。


 もしかするとこれほどまでに最後の自白を拒むのは、私の





まったく、困ったことになった。

想定外である。いや、想定していたから補強材料があるわけではあるが、しかし、こうならなければいいと願う権利は私にもあるはずだ。

あまりよくない変数が代入されてしまったようである。

「ご心配なく。このあとのいつもの事務手続きの確認ですよ。補強材料をどうするおつもりかなと思いまして」


荒野にいもしないものについてどうするもこうするもないものだ。


「荒野に並べなくてよい、という解釈ですかね。でも、さっきはしゃべるかもしれないという流れだったと記憶していますが」


嫌なやつである。

いかな私とて、だいたいの察しはついている。

いつまでも謎が私の荒野で謎のままいられると思うのは私への挑戦である。


「いやいやそんなことは。では、しゃべってされるということですね」と荒野は言い切った。


鴫沼は、中断の理由について、「心理的負荷が大きい」と言うことはできた。

ただその自身の発言にエビデンスがなかった。自身の荒野にそのようなことを発言するリソースが参照できない。

資源がないところからはなにも生まれてはならないはずである。を開示しないスタンスに対するしばっさんの抵抗なのかもしれない。

 フェアネスは向こう側にあり、たしかに私にとってそれは重要なものだ。

 簡単に曲げてはいけないとしばっさんは言っているのかもしれない。いわば教育的指導だ。

 ただ教育的指導程度では揺らがない。私だってそれ相応の覚悟をもって信念を捻じ曲げているのだ。


「最後に整理だけする。早瀬莉子が原稿を見せてほしいと言ったとき、しばっさんは断ることができた。すくなくとも安賀多賢章には早瀬莉子に元原稿を

 当時のしばっさんにもわかったことを述べると、さらに状況はしばっさんに厳しい。

 あたりまえだが雨に原稿が濡れたということは、淡田彗星が雨の中どこかから運んできたということだ。原稿だけ抱えてね。

 しばっさんが淡田彗星を指導していたことを考えれば、通常は部室で原稿は書かれていた可能性が高い。

 つまり、彼は登校して早瀬莉子の不合格を知り、わざわざいつもとはちがうべつの場所で急いで原稿を書いて、わざわざ雨の中差し替えに部室に再度やってきた、ということになる。

 これで淡田彗星が差し替えた意味がわからないなんてことはありえない」

「賢章の莉子に対しての気遣い」

「そうなる。だから、その淡田彗星の気持ちをおもんぱかれば、ぼくたちに早瀬莉子の差し替え前の原稿を提示しなかったように、そんなものはないと言えた」

「莉子の差し替え前の原稿は本当に持ってないが、そのとおりだ」

「ぼくはそう信じるしかないし、たしかにそれは些事だ。ただ、原稿を見せなければ、もしかしたらすれちがわなかったかもしれないという可能性は、依頼の上では些事ではない」

「たとえば早瀬莉子さんは1年浪人して早稲田に行った可能性もある。そうなるとその1年後に入学してくるお母さんとは結婚しなかった可能性もあるしね」と安賀多先輩が付け加える。

「でもですよ、柴田先生をかばいますけど、見せてどう思うかなんてわからないじゃないですか」と宮田。

「まさにそれをエクスキューズにしたんだよ」と私は言った。「どう思うかわからないから、見せた」

「ん? かばおうとしましたけど、すっごい違和感ありますね、それ」と擁護に失敗した宮田が言った。


「じゃあ、なんで柴田先生は原稿を見せたんですか?」とようやく安賀多先輩が尋ねる。


 どうしてもやや厳しいことばに映った。

 ただ、こうなればもう自白をせざるをえない。

 あまり美しくはないきっかけではあるが、致し方ない。


「もっとも単純に言えば、トピックが安賀多賢章の作品についてだったからだよ。当たり前だが成績表なら見せてない」

「それはそうだと思いますけど」と安賀多先輩は一定の理解を示したのかどうかもわからないあいまいな返事をした。

「俺が単純に淡田彗星の作家としての実力に惚れ込んでいたということだよ。俺が指導した結果、賢章は作家として近道ができたのは否定できないだろうと思う。賢章の卒業後の努力を否定するわけじゃないが、基礎部分を教えた自覚はあるし、当時もすでにあったんだよ。こいつは絶対にすごい作家になると本気で思っていた」

「それで、早瀬莉子さんがように言いに来たのが気に食わなかった、ということですか?」

「いや、それはあまり正確ではないですね」と私は言った。


 私が介入したのはしばっさんの回答は、あまりに犯人らしかったからだ。

 だれしも責められたいというときには、偽悪的であろうとする。

 おそらく早瀬莉子に対して、しばっさんはそのようなことを思ったことはない。

 なぜなら、しばっさんは早瀬莉子に対して淡い好意を抱いていたからだ。たとえ淡田彗星が柴田哲朗のオム・ファタールであったとしても、彼女を低く見るということはしばっさんの性格上考えにくい。

 より正確に言えば、淡田彗星と早瀬莉子は柴田哲朗にとってほぼ同じくらいの比重の構成要素だ。

 つまり――。


「しばっさんがそのとき感じたのは疎外感です」と私は続けて言い切った。

「疎外感?」

「……そうだな。もっともグロテスクに言えばそうだ。本当に、賢章や莉子がいた3年間は人生でいちばん愉しかったんだよ。若いころに真剣に小説を書いていたときよりもずっと愉しかった。それがいけなかった」

「いけなくはない。ただし、上がるべき舞台ではないのに上がってしまったのは柴田哲朗の罪だ」と私はわざわざ断罪する。「さすがに結果論とは言え、古来より日本では他人の恋路に介入するやつは馬に蹴られて死ぬ呪いがかかることになっている」

「でも……」と宮田はなにかことばを探すが見つからないようだった。

「いや、いいよ宮田。鴫沼の言っていることは正しい。俺は舞台に上がるべきじゃなかった。俺が俺の青春時代にやっておくべきことだったんだよ。莉子と賢章には莉子と賢章の時間がある」

「わたしはかばう気はないですけど、柴田先生には鴫沼くんが言うような恋路に干渉する気はないように思えますけど」と安賀多先輩は言った。

「悪い結果を予測できたか、って話だろう。それはできたよ。たしかに莉子がどう思うかまでは正確にはわからなかったが、なにか起こる可能性は確実にわかっていた。志望校を変えたのはもちろん予期していなかったが、それでもふたりの関係になにかが生じる可能性は俺には充分予測できた」

「積極的に干渉してしまったのが先生の罪ということですか?」と安賀多先輩からはできるだけ正確に尋ねようとしている姿勢が見える。

「賢章の差し替え前の原稿にはすこしだけ俺への言及もあったんだ。だから、それを見せたかったという気持ちがないこともなかったのかもしれんが、いまとなっては俺にもわからん。当時はわかってたのかもしれないが、わからないフリをしているうちに本当にわからなくなった」

「ここからは状況からの推測でしかないが、時間がたってそのことを知った淡田彗星はしばっさんを責めなかった。早瀬莉子も同様だろう。彼らはしばっさんを責めなかったんだ。

 しばっさんはそこで責められたかったんだろうけどね。

 責められなかったことで、当時のふたりの気持ちは、完全にふたりだけのものだったということが

 ここでしばっさんの罪は完成するわけだね。

 自分の気持ちを優先して他人の恋路に横槍を入れた罪深い傍観者としての柴田哲朗だ。

 これが『教師の隠しごと』の依頼者に開示が必ずしも必要ではないディテイルの後半」

「言い逃れのしようもない。微塵もたがわずそのとおりだよ、名探偵」

「それをこの瞬間までだれにも指摘されなかったことが、しばっさんがこの依頼をぼくに持ってきた本当の動機。早瀬莉子と安賀多先輩の関係構築は大義名分でしかない。まあ大義名分もあまり褒められたものではない気がするが。罪滅ぼしのような独善的ニュアンスが入ってるしね」


 しばっさんはゆったりとした呼吸を続けている。

 感情はなにも読み取れない。

 あるいは蒸発してしまったのかもしれない。


「だからこれは、舞台に上がってはいけないシーンで上がった、愚かな教師の話だ」

「……満足はした?」

「おおむね。すまないな、面倒なことをさせて」

「ぼくはそれなりにしばっさんに感謝はしているからね」と私は言った。

「これで、俺の話、つまり『教師の隠しごと』は完全におしまいだ。もうなにもない」としばっさんは言い切った。


 早瀬莉子への感情は検閲どおりに言及はしなかったが、安賀多先輩や宮田が完全にそこに気づいていないかはわからない。

 ただ、追求もしないだろう。

 このディテイルの開示はだれも望まない。しばっさんにとっても、早瀬莉子にとっても、淡田彗星にとっても。そして、依頼者である安賀多先輩にとっても。

 当然、私自身もまったく望まなかった。


「ちなみに、この先生の感情にシデ先輩はいつ気づいたんですか?」と重い沈黙を敢えて破るかのように宮田が言った。

「依頼の瞬間しかないだろ、それは。ぼくにはしばっさんと淡田彗星についての事前情報がすでにあるんだよ。

 マクガフィンがエビデンス版の『花の散る季節のきみへ』であることは、淡田彗星の娘がしばっさんを経由してここに来た段階で確定的だ。

 しばっさんが淡田彗星に特別な感情を持っていたことは明白すぎて話にもならないゆえに、その原稿についてなにか特別な普段はしない動きをしたという推論は容易い。そのときの感情が淡田彗星に関するものであるのは、論理だけでカタがつく」

「なにも容易じゃなくてびっくりしました。いつもはもうすこし人間的なスピードだなとは思いますけど、事前情報があるとここまで人間離れするんですね」と宮田は本気で呆れている風である。

「わたしもちょっと引いている」と安賀多先輩は言った。

「俺がいちばん引いてるということをおまえらはわかってねえよ」としばっさんまで言う。


 ろくでもない人々である。


「でも、早瀬莉子さんについては名前を知らなかったわけだから、全知全能ではなさそう。部室にある作品は全部読んでるのに」と安賀多先輩は言う。

「特筆することもない出来の悪い作品までは概略しか覚えてないですよ」

「概略は覚えてたことで鴫沼住春エピソードを増やしていくわけだね、きみは」

「時間は平等に与えられているんですよ。ただ結果がちがうだけです」


 安賀多先輩はすこしだけ笑った。


「あ、でもでも! もうひとつだけ。なんで柴田先生は原稿をずっと隠してたんですか?」と宮田が尋ねる。

「このマクガフィンは捨てられないし、見ると自身の罪を思い出すだろ。結果、机の奥底にしまい込むしかない。目的のない隠蔽だよ」と私は言い切った。

「まあ、そうだな。ただ今度はちゃんと舞台に上がらなかったから、目的のない隠蔽はもう必要ない」

「いや、今回はそもそも舞台に上がりたいとも思ってないだろう」

「まあ、それはそうだが」

「そして馬に蹴られて死ぬリスクもないわけだから、比較的自白の障壁は低い」


 それにもかかわらず、ここまで粘ったとこに私はすこしだけ抗議の意味を込める。


「馬に蹴られるリスクはおまえらくらいの年齢のやつとしゃべってればそこかしこにあるんだよ」としばっさんは今日もっとも安心したような笑顔を見せた。「高校生が3人いれば馬だよ、馬リスク」


「ヒヒーン」と『教師の隠しごと』が荒野の隅でしてやったりと言う声を出した。

 おそらくほとんどやつの最後の仕事だろう。仕事と呼べるシロモノかはわからないが。

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