19話:バスに乗って彼女が来る前に
「そろそろ莉子が来るが、これはどうする?」としばっさんは言った。
これとはもちろん、淡田彗星の差し替え前の原稿である。
「つぎのバスって2時すぎのやつですよね? 残り時間で読めます?」と宮田が時計を確認して言う。
「さらっと読むくらいなら間に合うだろ。こっちのほうが短いぞ」
「そっちはじっくり書いてるんじゃないんです!?」
「作品の長さと質は相関関係にねえぞ。完成度は全然こっちだよ」としばっさんは宮田に答え、安賀多先輩に向かって原稿を差し出す。「どう説明したところで、賢章が莉子に宛てたラブレターでしかないから、読んでいい気分になるものでもないとは思うが」
「ぼくも読む。なにしろそれはこの部室でぼくが目を通していない唯一の原稿だからね」
「デリカシーとかないんですか、シデ先輩は! いや、なかった! 自分の欲望に極めて忠実なひとでした!」
「いいよ。依頼料も払ってないことだし。おさきにどうぞ」と安賀多先輩は言った。
「ちなみに安賀多先輩は嫌なものを見ないというのもひとつの解法ではありますよ。知らないことは必ずしも悪いことではない」と私は立ち上がってしばっさんのほうへ歩き出す。
「先輩、さっき無知がなんたらって言ってましたよ!」と宮田は言った。
安賀多先輩は、宮田のことばにほのかに笑って、
「じゃあ、きみはそうするのかい?」
「ぼくがそうするわけがないと思いませんか?」
「思うよ。だから訊いた」と安賀多先輩は言った。「一般的に自分が取らない行動であるにもかかわらず、他者の立場にあわせて提案することは思いやりに該当すると思うんだよ、わたしは」
たとえそうだったとしても、言語化しなくてもいいことではある。
どちらからでもよさそうに、しばっさんが原稿を私に差し出しなおす。
「いや、待て。こころの準備がいる」と私は受け取るのをすこし躊躇した。
「こころの準備からいちばん遠い生き物だろおまえは」
「そのタイトルにもし花とか春が咲いていたら、そのチープさへの怒りをどこにぶつけるかは考えていなかったことにいま気づいただけだ」
「シデ先輩……残念ですけど……」と位置的に表紙が見えるところにいた宮田が言った。
『春の咲く季節のきみへ』 安賀多賢章
「ああ、そうだろうよ!」と私は明確な怒気を含めて吐き捨てた。「なぜ淡田彗星はこんなにもチープなんだ。あれだけの技量がありながら、どうしてこんなにもところどころが粗雑なのか!」
「……ずいぶん過激なタイプのファンだよな、おまえ」としばっさんは言うが、
「ファンじゃない」と私は当然否定する。
ただ、これも当然だが私はとりあえず読み始める。
1ページ見ればわかる。なるほど、こちらを出していれば早瀬莉子が完成度に文句を言うことはないだろう。
ページを繰るたびに確信する。
やはりそうだ。
当たり前のように提示される結論が目の前にある。
この『春の咲く季節のきみへ』は創作物としてセンチメンタルの水平にすらいない。
当然のように、恥ずかしげもなく、あますところなく、ただのラブレターだ。
原稿用紙で20枚には満たない程度の長さだが、『花の散る季節のきみへ』よりも数段読みやすく、推敲の回数が数十回は楽にちがうであろうことが読んでいる端からはっきりと伝わってくる。
これが18歳の淡田彗星の全力なのだろう。
それまでの『雲海』に載っている淡田彗星作品(いや、この場合は安賀多賢章作品と言ったほうが正確だが)より凄まじく洗練されている。
ありていに言えば、熱量がちがう。ていねいで繊細なラブレターだ。
早瀬莉子以外が読むことをまったく意識していないとても個人的な作品である。
淡田彗星が全盛期だったころの読者の求めるものを完璧に把握しているかのようなスタンスとは明確に異なるが、しかし、これはそこらに並べられた作品とは熱量の桁がちがう。
すくなくとも地方の工業都市にあるさして高い偏差値とも言えない進学校の文芸部誌に載っていていいようなものではない。
「それゆえに」と読み切った私はついこぼしてしまう。「これを隠せない気持ちはわからなくもないな。見せた相手とタイミングは悪かったが」
「もう読んだんですか、相変わらず早いですね」と宮田が言った。
「まあ、言っているとおりに内容は相聞歌の片割れだ」
「あ、すぐネタバレしようとする! 戦争だって言いましたよね、私!」と宮田が言う。
「じゃあ、いいから早く読め」
「私は安賀多先輩より先に読むなんてデリカシーのないことはできません!」
「オーケー。じゃあ、読むことにする」と安賀多先輩は私から原稿を受け取った。
私は安賀多先輩が原稿を読み終わるのを待つ。時計を見る。13時47分。安賀多先輩が読み終わったあとで、この作品について話す時間はあるだろうか?
と。
果たして依頼のディテイルとして、この作品についての説明は必須だろうか?
断じて否である。
差し替えられる前の原稿は出来のいいラブレター。それだけの情報があればいいし、そもそも安賀多先輩にも読めばそれはわかるだろう。
私がわざわざ語る必要はない。最大限に言及するとしても簡単な注釈を入れる程度以上のことは必要ない。
かくてそれを確認した私は仮説を導き出すことになる。
もしかすると第4の謎とは、私の淡田彗星に対する嫉妬心なのかもしれない、という不愉快な仮説である。
私も含めて出てくる人物があまりにも淡田彗星に好意を持ちすぎている。淡田彗星は尊敬され、便宜を図られ、彼を中心に彼の周りの人間は立ち回っているかのようである。
そのことを私自身が不愉快に思っているのかもしれない。
たしかに私の荒野はとてもコンフォータブルとは言えない状態だ。
私自身が淡田彗星に嫉妬するかどうかは論理的には判断がつかないが、逆に言えばそれこそが証左なのかもしれない。
第4の謎はつまり、私自身の淡田彗星に対する嫉妬だ。
ことばにすればさしたることではない。
とても他責的に言えば、淡田彗星の呪いとでも言っていいだろう。
オカルトのたぐいであれば、私に即座に解けない謎があっても仕方あるまい。
しかし、荒野は静まり返っている。
私の愛すべき荒野にはいま、なにも音がない。
「読んだよ。これはよくできてるね」と安賀多先輩が沈黙を消す。「差し替えたあとの父さんの作品は、これに比べたらただ励ましてるだけの文章だね」
「そうですね。これはただのラブレターです。ただし、大作家・淡田彗星のルーツがここにはある。センチメンタルの水平の出どころはここです」
「きみは彼がわたしの父だということを忘れてる?」
「大作家って言ったじゃないですか」
「いや、娘の前で遠回しに褒めているように見える、と言いたかった」と安賀多先輩はからかうように言った。
安賀多先輩が宮田に原稿を渡す。私はここからギリギリ見える正門を見る。
もうじきにバスが来る。
そのバス停は門の陰になっていて、上半分が見えている程度だ。その奥には九生市が一望できる。
あれが
九生市は完全な工業地帯だ。
淡田彗星と早瀬莉子は海辺のなんの変哲もない工業地帯に育った。
海は近いが、泳げはしない。ただ海水があり、夜は深く黒くなるだけの場所だ。煙突とセットであって、砂浜とセットではない。
工業地帯以外に、九生市には形容するところがない。なにもかも凡庸で、街には老人があふれ、シャッターだけが猛々しく存在を主張する。よくある寂れた都市で、それはここ数年始まったものではない。
淡田彗星がこの街を出る前、あきらかに街は終わっていたはずだ。
「淡田彗星の作品にはたまに九生らしき地域が出てきますが、寂れているという描写以外はとくにないんですよね」と私はなんとなく言った。
とくに意味がない情報を提供したとも言える。
しかして、私は意味がないとわかりながら、まるでコントロールされていない情報を投げ出す。
つまり、作品についての感想である。
「早瀬莉子の『彗星』はそのような街で育った男女が、小高い山にある高校で出会って、夜の校舎でふたりで彗星を眺めたというだけの話で、シンプルに言ってあまり価値がない。それらしい彗星がふたりの在学中に見られたかもしれないというのは事実ですが、そのぼんやりとした天文情報と同程度の価値です」
「本人が来ないうちにひどい言いようだね」と安賀多先輩は苦笑いした。
「差し替え前の原稿はもっとまともだったはずですが、見られないので『彗星』を引き合いに出しただけです。まあ、本題ではないので百歩譲って『彗星』の出来は並でも構わないですよ。
問題はこの『春の咲く季節のきみへ』です。
本作は卒業時に作られる『雲海』に極めてよくある傾向、3年間の日常を掌編チックにまとめる、という情報密度も作品性も薄いものです。『彗星』同様に星を見た箇所もありますし、文芸部室の話もある。すべてのシーンに早瀬莉子と思われる女生徒がいて、好意を伝えてないものの、内容自体は完全にただのラブレターです。
だが、それでも――たったそれだけのことが極端にうまく書かれている」
「あれ、今度はちゃんと褒めた?」と安賀多先輩は驚いたように言うが、正当な評価であるがゆえに驚くほどのことでもない。「きみは素直に褒めもするのかい?」
「早瀬莉子は特定状況においては高い能力を持っていると考えられますが、こと自身の文章力という点から見れば、ただの女子高生ですよ。それと比べて褒めるのはさすがにあたりまえでは」
「複雑怪奇」
「複雑じゃない感情なんてないのよ、とよく他人はぼくに説教しますが、ぼく自身はあまりそれに実感がないので止します」
そして、こういうときの宮田の安定感は世界を平和にするのかもしれないと私は思う。
「うーん、読んだけど、正直よくわかりませんでした!」
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