16話:名探偵の消極的な選択

 図書室前にある談話スペースも当然のようにひとはいない。

 こうなってくると校内に我々だけしかいないのではないかというような気になってくるが、いくつもいくつもその気分を否定するエビデンスは出てくる。

 たとえば、窓の外から薄く聴こえてくる吹奏楽部の音などだ。

 あるいは部室から遠く見えるグラウンドに野球部や陸上部の姿もあった。


 安賀多先輩は談話スペースの椅子に座ってメロンパンを齧っている。


 『メロンパンを齧る少女』 鴫沼住春(2年)


 なるほど、淡田彗星や早瀬莉子の気持ちはわからない。


「なんだい?」と安賀多先輩は言った。

「これと言ってなにも」

「そんなわけはないだろ」

「情報をどう渡すかを考えていた、だがしかし先輩はメロンパンを食べている。果たしてぼくは話しかけるタイミングを失していました」

「きみが食べながらでもしゃべれると言ったんだろ」と安賀多先輩はまたメロンパンを齧る。

「一理ある」と私も持っていたメロンパンを開けて齧る。

「被ってるね」と安賀多先輩はそのままのことを言った。

「言うほどの確率じゃないですね」

「メロンパンで運命感じてたら世界は恋に満ち溢れていることになる」と安賀多先輩は笑う。

「糖分が世界を救うという一般論があるのかもしれません」

「一理ある。まあ、わたしはべつに世界に嫌われているとも思ってないけど」

「奇遇ですね。ぼくも嫌われてないと思ってます。パスカルの賭けみたいなものですよ。世界に愛されていると思って損はない」

「きみはどう見ても愛されてる側のひとでしょ」

「才能においてはそうですね。ただぼくも世界に努力を捧げているので」

「世間のすべての人が、お前のように恵まれた条件を与えられたわけではないのだ」と安賀多先輩は言ったが、私は黙っていた。「あれ、間違ってた?」

「いえ、グレート・ギャツビーを読む少女のバリューについて考えています」

「待て。美が抜けているし、そしてわたしは先輩だ」

「またそういうことを言う」

「きみにならどれだけ言ってもいいような気がするんだよ。すくなくともある点では自分より明確に恵まれているひとがいると、容赦なく自己肯定感をあげても許される気がする」

「村上春樹訳なところがまた早稲田愛を感じますね」

「訳の違いがわかるのは異常だ」と安賀多先輩は苦笑いする。

「キャッチャー・イン・ザ・ライもですが、野崎訳と村上訳をあわせて読みましたよ」

「きみはあれだな、何年か余計に生きてそうだ」

「時間は平等に与えられる。結果は平等ではない」

「だれ?」

「野村克也」

「うーん……だれ?」

「大昔の野球選手ですよ」


 と。


「あれ、シギーじゃん。めずらしい」と通りかかったクラスメイトのひとりが声をかけてきた。

「いや、学校にはたいていいるが」と私は返す。

「文芸部室の主だろ」と彼は笑う。「鴫沼が徘徊してるときはなんかやってるとき」

「部活か?」

「いや、生徒会。入学式の打ち合わせだよ。っていうか、安賀多先輩じゃないですか」

「こんにちは。はじめましてかな」

「去年委員会で何回か会ってますよ」

「それは失礼」

「やっぱり、なんかやってるときじゃないか」と私に耳打ちする。

「否定はしない」


 それから安賀多先輩に、


「安賀多先輩、こいついろいろ失礼ですけど、悪いのは口だけなんで」と軽口を叩いて去る。


「意外とコミュニケーションをする」と安賀多先輩はクラスメイトが去ってから言った。

「ぼくをなんだと思ってるんですか。まあ、あれはまたべつですが」

「友だち?」

「一般的には」と私は言ったが、やつがどう思っているかはわからない。

「生徒会長だよね」

「ご存知ですか」

「生徒会長は知ってるでしょ」と安賀多先輩は当然のことのように言って、「そう言えば、もう先生と宮田さん待ってるだけでいいの?」

「ええ。最低限はすでに確認しました。残りはふたりが戻って来てからでもいい」

「意外と雑談してしまったからね」

「意外とそうですね」と私は言って立ち上がった。「ただ、そろそろ戻ってくるでしょうから、保険を持ってきます」

「ここに?」

「ええ。少々お待ち下さい」と私は安賀多先輩を残して図書室に入り、スクラップをいくつか眺める。


 1、2、3。

 ぱらぱらと確認して、それらしきものをピックアップした。ここまでは問題ない。


「出せばフェアネス!」と『教師の隠しごと』。

「出さねばバイアス!」と『過去のすれ違い』。

「どっちも無惨だじぇ!」と『捨てた』。


 ところで『捨てた』はいつまでその不可解な語尾をつづけるつもりなのか。


「だれかのせいで予はいつまでも片手落ちなのじぇ! 幼児化しておかないと解決とも言えないのじぇ!」


 敢えて謎のハードルを下げてディテイルが詳らかになったと主張するアンフェアな王が私だ。

 否。

 さすがにそこまで卑下するつもりはない。


「なら、4つ目は持ってくべきなのじぇ! そしたらつぎはふつうに話すじぇ!」


 挑発までしてくる始末である。

 ただし、私は理解もしている。

 3つ目までのスクラップでは作家としての淡田彗星の理解を進めるための保険にとどまるが、4つ目のスクラップを入れた瞬間に、「補強材料」にまで及ばざるをえない。

 保険の域に片足はとどまるが、明確にもう片足は出る。


 結果、私は開示するか決めかねているまま、4つ目のスクラップを手に取った。

 図書室から出ると、しばっさんと宮田もすでに座っていた。


「おい、それ持ち出し禁止だろう」としばっさんは形式上注意する。

「あとで返しておくから問題ない。だれもいなかったから、図書室で話してもいいが」

「選びにくい選択を……」

「まあ、本当にすぐ終わる」と私は4つのファイルの該当ページを開いてテーブルに置く。「こことこことこことこれ」

「その早さで読めるわけがない!」と宮田は私の提示に不満のようだ。


 仕方がないので、宮田に読めるスピードで指を指し直す。


「作家としての幅を拡げていい時期なんじゃないかと考えている」

「今回の受賞で作家活動というものにひとつの区切りがつけられたと思っている」

「売れたことは読者の評価なので嬉しいが、作品の出来とは別だという評価も的外れとは思わない」

「今はかなり集中できてるんですよ。大江先生じゃないけど、レイトワークみたいなものかな。さすがに晩年ってほど年じゃないから第二幕とか言われた方が嬉しいけどね」


 宮田は指されるたびに読み上げた。


「今日はじめていい仕事をした」と私は彼女の功績を称えた。

「え、私の価値!? 私のバリュー!? ここだけですか!?」と、当人は称えられても文句を言った。

「褒めたぞ」

「じゃあ、いいです!」と当人も満足したようである。

「時期がバラバラだね」と安賀多先輩は私と宮田のやりとりを置いておき、冷静に指摘する。

「時期は飛び飛びですが、読んだ順の時系列ではありますよ。いちばん古いものがデビュー10年のときのインタビューです。32歳ですね。つぎのふたつは受賞時とそのすこしあとです。受賞後にはなかば引退ともとれる発言をするほどになっていたとわかります。が、さいごにお見せしたものでは復活している。ふつうはそう読み取れるはずです」

「私を見ないでください! さすがにそれは読み解けますよ!」と宮田が私の視線に反発する。

「なにも言ってないが」

「目は口ほどに雄弁なんですよ、シデ先輩」

「人類の知の血流がおまえにも流れていて、ぼくはうれしく思うよ」

「いや、待ってください! それよりもですよ! これがなんの保険になるっていうんですか!」と宮田は慣れた風である。

「時系列を考えればわかるだろうが、直接的にさっき読んでもらった『花の散る季節のきみへ』には関係はない。むしろその後の話だ。これから確定ヒロインについてしゃべるときに、おそらく理解を助ける。淡田彗星にとって早瀬莉子がどれほどの存在だったかということにつながる。つまり、『過去のすれ違い』のディテイルの保険だが、早瀬莉子がこのあたりをしゃべれば済む話ではあるので保険と言っただけだ」

「くだんの補強材料ではないということ?」

「……いえ。これは『過去のすれ違い』の保険であると同時に『捨てた』の補強材料になりえます。ただいまは補強材料として提示したつもりではない、ということです」

「情報コントロール的にね」

「ええ。あとさいしょに言いましたが、注意点としては補強材料そのものについても早瀬莉子が語る可能性がある。この場合は否応なく開示することになります」

「もろもろ勘定して名探偵はここで見せるのがベストだという選択をした?」と安賀多先輩が言った。

「ベストはまったく見せないことだったという可能性があることに目を瞑れば、ここしかないですね」


「宮田と柴田の視線が合う。

 ふたりにとって、この鴫沼の回答は異質だった。

 鴫沼はいま、別の選択肢がもしかすると優位だったかもしれない、という提示をした。

 文芸部室の邪智暴虐な探偵、絶対的な自信しか見せない鴫沼には、あまり見られない兆候だった」


 やめろ。

 勝手に描写するな。


「失礼。そういうシーンかなーと思いましてー」と荒野が言った。


 しかし、いくらなんでもおまえは自由にやりすぎている。


「でも、矛盾しながら見せるという選択をしたあなたには、すでに情報のコントロールができていない。あとは野となれ山となれ、ですねー」

「予は支持するよ。予が予として詳らかにされるには必要な要素だ」と『捨てた』が称える。

「たまには結果をただ見守ることがあってもいいのかもしれませんねえ」と荒野は言った。

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