15話:彼女はカンがいい

 12時半をすぎていた。

 午後2時すぎに早瀬莉子の乗っているバスはおそらく来る。

 長期休みはダイヤがすこし変わっているが、日中は正時近辺に到着するバスが必ずある。

 乗客のすくない春休みのバスから早瀬莉子が降りてくるとき、最後のディテイルが詰まる。

 と言っておけばただ人間がバスに乗って学校に来るというシンプルな事象をそれらしく語ることができる。果たしてこんなことにはなんの価値もないが、それがいいという人間が蓼を食うことを咎めるものではない。


「正直に言えば」と安賀多先輩は言った。「疲れたね、すこし」


 もっともである。

 3時間ほぼしゃべっていた(のはたいはん私なので、もっとも疲労しているのは私だと主張することもできないではない)のだ。


「ちょうど昼ですし、すこし休憩をとりましょうか。早瀬莉子が来る前に」

「賛成賛成賛成! お腹ペコリッチーノですよ、私は!」と宮田が言った。「あ、でも休みのときって購買ロクなものないんですよね……コンビニ遠すぎる……」

「車出してやるよ」

「え、いいんですか?」

「歩いてたら食う時間なくなるだろ」としばっさんは言った。「おまえらはどうする?」

「ぼくは朝買ったからいらない」

「わたしも部活行く気だったから持ってきてます」

「じゃあ、さっさと行くか。あともう莉子を待つだけか?」

「いや、1点だけ保険をかけておきたい事前情報がある」と私は極めてセンシティブに話題に触れる。

「ああ、補強材料ってやつかな?」と安賀多先輩は言った。


 あきらかに彼女だけが補強材料に着目しすぎている。

 そう思うのは果たして私の杞憂だろうか。


「そのものではないですね。エビデンス版についての事前情報くらいのつもりです。淡田彗星の娘である安賀多先輩がどの程度淡田彗星に詳しいのかが未知数なので、前提を揃えておきたいという意味では確認事項とも言える」


 とくに異論はなさそうである。

 そのものではないというあいまいな否定をだれもが見逃してくれたようだ。荒野はにわかにざわつくが、無視できないほどではないので無視する。


 実際、この保険としての情報は補強材料には大きく関わる。


 解釈次第でエビデンス版の『花の散る季節のきみへ』の単純な事前情報にもなるが、おそらくしばっさんくらい淡田彗星作品に精通していればそこから補強材料そのものが推測可能だ。

 いや、しばっさんはそもそも補強材料の全容を私よりも理解している可能性もあるが。


「きみの言うエビデンス版にそんな事前情報必要だったかなとは思うけど」

「ごもっともではあります。安いドラマですよ。情報密度は薄い」

「シデ先輩、そういう言い方はダメですよ!」と宮田は指摘を忘れない。


 ただ指摘が正しいとも限らない。


「とても高尚なものとは言えないだろ。ただ人間は情報の密度で人生を変えるわけじゃないってだけの話だ」

「言い方!」

「いいよ、宮田さん。わたしもそう思う」

「ええ……もしかして安賀多先輩、シデ先輩と同じ種類のひとですか?」

「そんなわけないでしょ」

「ありえない」

「ぼくはこんなことに興味を抱かない」

「そうでしょうよ、きみはね」

「あなたは抱く。だからそういうところで我々は別個の人間ということですよ」


 当たり前の話である。

 しかし、ここで時間をあまり食うわけにはいかない。

 早瀬莉子に話を聞いて、補強材料まで開示することになれば、今日中に解決しない可能性すらある。


「我々は図書室前にいますから、宮田としばっさんは買い物が終わったらそこへ」

「図書室?」と安賀多先輩は言ったが、

「ああ、スクラップか」としばっさんはピンと来てしまったようである。「なるほど、それを悩んでるのかおまえは」


 面倒な中年教師だ。

 いやなところでカンがいい。


「意外かい?」

「悩むのは意外だ。当然開示するつもりだろうと思って聞いていた」

「それがフェアネスかどうか判断できてない」

「原稿はどうする?」となにかことばを飲み込んでしばっさんは言った。

「それはそんなに時間はかからないだろ。1時半にここに戻ってくれば充分だ」

「意外とタイトじゃないですか!」

「車で行くんだ、10分もあれば帰って来られるだろ」と私は指摘する。

「ひどい労働環境だ!」と宮田は抗議する。

「まあ、おごってやるからぱっと選べ」としばっさんは笑った。

「え、ほんとですか、やった!」と宮田はいちおうと言った風でよろこんで、しばっさんのあとについて行く。


 と、ドア付近で止まって、


「これを言うのは正直に気に入らないですが」とめずらしくネガティブな前置きをした。「そう悪くない選択だと私は思います」

「アドバイスがあいまいにすぎる」と私は言う。

「これ以上はフェアネスを欠きます」

「なんのフェアネスだよ」

「私へのフェアネスですよ」と宮田はぽつりと言ってドアを閉めた。


 宮田としばっさんが部屋を出たので、私は安賀多先輩に、


「話は食べながらでいいでしょうから、移動しますか」

「かまわないよ」と安賀多先輩はカバンを持って立ち上がる。

「先輩は淡田彗星作品をどの程度読んでいますか?」と私もカバンを持って問いかける。


 そう。ここからさきは今日の地雷原だ。

 一歩間違えば情報コントロールをすべて失う。


「すくなくとも半分くらいは読んでると思うけど……全然読まない時期もあったよ」

「離婚したあとのものは?」

「読んでない……かな。まだ2、3作しか出てなくない?」

「そうですね。この5年で4作出ていますが、書いた時期が不明瞭なことも加味すれば、多くて3作と言ったところでしょう」

「きみは読んでるの?」

「全部読んでいます」

「力強い」と安賀多先輩は笑った。

「例によって話していきますから、先輩の認識とちがうところがあれば指摘してください」

「天才も万が一勘違いしてる可能性だってあるし、確認しておこう」

「いや、ぼくがこの程度のことでまちがえることはないですね」と私は断言した。「安賀多先輩の理解の確認です」

「まったくきみは」


 部室のドアが閉まる。

 無人になるが、施錠は職員室まで行くのが面倒なので、当然のようにだれもしない。


「ところできみは部室が好きなんだね」

「唐突のように思えますが、まあ、比較的そうですね。家や自習室や図書室よりはよほど刺激がある」

「行動範囲が手に取るようにわかるね」

「そうは言っても毎日ランニングはしています」

「それっぽいよね。イメージに反して体型すっきりしてるもん」

「まあ、嫌いじゃないんですよ、ぼくはぼくのことが」

「いつかきみが自伝でも書いたら読むよ」

「それについては、映像化したときの主題歌だけ決まっています」

「え、主題歌だけ?」

「シャレの通じないひとですね」

「きみがシャレを言うひとだと思ってなかったよ、こっちは」

「挿入歌も2、3決まってますよ、当然」

「いい作品になることを祈ってるよ」


 文芸部室は部室棟の3階。

 専門棟と言われる図書室がある棟までは教室や職員室のある本棟(物証と物量の部屋もこの本棟だ)を経由するので数分かかる。

 部室棟からは職員の駐車場が見える。2階の廊下からしばっさんと宮田がちょうど歩いて行くのが見えた。

 安賀多先輩は軽く手を振ってみたが、ふたりは振り返らなかった。


「まあ、見えないか」と笑う。

「安賀多先輩にとって宮田はどういう人物なんです?」

「宮田さん? 楽しいよ。いてくれると空気が和らぐよね」

「でも、そういうことがなくてもあなたは生きていける」

「どうだろうな。そうじゃないかもしれないよ」と安賀多先輩は言った。「それにきみはそう言うけど、わたしのことを扱ってるように思われるフシもある」

「気のせいですよ」

「他人の気持ちはわからないからね」

「さようです」

「あれでいて、案外シデ先輩は自己肯定感が強いわけじゃないんですよ、とも言ってたし、案外きみが思うよりもきみのことをわかっているのかもしれない」

「まあ、付き合いは長いですからね」

「そういう問題じゃなくてだね、きみが思っているよりも周りはきみを知りたいと思うかもしれないし、事実知られているかもしれないということだよ」と安賀多先輩は言った。


 そのようなことを話しつつ、我々は図書室に着く。

 中にはだれもいない。

 図書委員すら不在でカウンターに、本日は室内利用のみ、という立て札がしてある。


「春休みはどこもひとがいなくて快適ですね」

「単純に生徒数3分の2だしね」と3分の1のほうの安賀多先輩は言った。

「安賀多先輩はいつ東京に?」

「月末かな。もともと住んでた家に戻るだけだし」

「引き払ってないんですか」

「淡田彗星の経済状況についてはきみも言及してたと思っていたが」

「家族で住んでいた家にひとりで住み続けるものなのだという単純な驚きがあったということです」

「そこはよくわからないよね。まあ、あんまり結婚生活についてネガティブじゃないんだろうね、父さんも」

「単純な恋愛感情の多寡で天秤にかけたにしては、ですか?」と私はナーバスに尋ねる。

「きみの結論にケチをつける気はないよ」と安賀多先輩は微妙にそれを感じてか明言した。


 しかし、彼女はまちがっている。

 私はディテイルの不整合など気にはしていない。そんなことは起こりえない。


「とても見てられないね。あんまり補強材料に囚われすぎるとフェアネスを著しく欠くことになるよ」と第4の謎がぼそりと言った。「もう欠けてると言っていいのかもしれないけど」


 それはもうすでにわかりすぎるくらいにわかっている。

 余計なひとことにほかならない。


 だが、事実でもある。

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