14話:捨てた3
「それで名探偵、わたしは『捨てた』のディテイルを理解したと言っていいだろうか?」と安賀多先輩がわかりきったことを訊く。
「お察しのとおりですよ」
「じゃあ、続きをたのむよ」
「問題がひとつあります」と私は先輩のもっともな指摘に回答する。「あとひとつディテイルを詰めると、『捨てた』という謎はあなたにとてもわかりやすくなってしまうということです」
「うん? うん、そう頼んだからね? それがたとえわたしにとって愉快じゃないとしても」
「つまり……その準備は安賀多先輩にはできているということでいいですか?」
安賀多先輩はこれまでとはすこしちがう様子で微笑んだ。
ありていに言えば安賀多先輩にとって、私のいまの発言は微笑ましかったということだろう。
すくなくとも好ましい感情の表出だと私は解釈した。
「きみは不思議なひとだね」
「その発言に至った過程は、ぼくにとっても不思議ではありますよ」
「まあ、そこでかまわないよ。容赦なくやってくれたまえ、探偵くん」と安賀多先輩は言った。
そこまで言われては、進めないわけにもいかない。
これは淡田彗星が早瀬莉子と会っているという下衆の勘繰りよりは、ずいぶんファクター自体は揃っていることだ。
外すことはまずない。
だが。
だから。
したがって。
言いにくい。この私にとっても。
「先輩はどこに住んでますか?」
「いきなりだね?」
「べつにご自宅にお邪魔する気は毛頭ありません」
「上松市だけどほとんど九生寄りだね。最寄り駅も上松じゃなくて九生花崎」
「なぜ九生高校にしたんです? 公立と私立の差こそあれ、上松高校とレベル差はほぼない。かりにほんのわずか九生のほうが偏差値が高いとしても、3年間1本乗り過ごせば遅刻するような電車に乗らなければ通えないというハードルを合理的に越えるとは思い難い」
「朝は得意なんだよね。まあ、同じくらいのレベルだからどっちでもよかったけど、強いて言うなら母の勧めかな」
「……じつに人間味を感じます」
「なぜだ」と安賀多先輩が笑う。
「安賀多先輩がまるでそれに気づかないことには違和感がありますね」
「わかってるよ。言ってみただけ。きみが言いたいのは母がわたしが九生に進学するのを誘導したってことだね?」
「過不足なくそうです」
「それは父に対する牽制と考えるのが妥当だろうね?」
「先輩がそう言うのであれば。ぼくには断定するまでの根拠はない。進学先は誘導したであろうということは言えますが」
「わたしが気づいているであろうという根拠はあった」
「安賀多先輩は捨てたと形容してますからね。答えは最初から出ている。先輩は母親側のポジションに明確に立っているからそう表現したにすぎない、ということです。
なぜか。
母親のポジションに立たなければ、母親の行動の不合理性を弾劾しなくてはいけなくなるからです。高校の選択や淡田彗星と頻繁に連絡をとれている現在の状況は、母親にとっては一見気分が良くないものであろうと推測されるのに、なぜか母親はそう仕向けている」
「なるほど」
「あまり愉快ではないでしょうが、でもぼくは言わなくてはならない」
「バイアスをかけるのはフェアじゃないから」
「もしこの推理が外れているなら、指摘してもらって構いませんよ」
「いや、そうだろう。きみがそう言うなら、なおさらそうだろう」と安賀多先輩は認める。「たぶんわたしは気づいてはいたんだよ。父の相手が九生にいることも、母がそれを知っていたことも、折に触れて父と連絡をとるように誘導していることも気づいてはいた。だから、そうだね。きみの指摘はたぶん正しい」
でも、優しくはない。
と言われると私は思った。
これまでの依頼者がよくそう言うように。
が。
安賀多先輩は言わなかった。
代わりに、
「ありがとう」と彼女は言った。
今日はよく礼を言われる日である。
これまでの依頼者にはあまりない傾向だ。
最終的には感謝することが多いものの、過程で感謝を口にする人物はほぼいなかった。
「母の誘導が不自然だというのは簡単にわかるけど、わたしにとって不都合だからわたしはそれを直視できない、というのはやや滑稽ではあるね。自分のことながら」
「……やや自虐的にすぎますが、そのとおりです。先輩の母親にしても、そういう誘導はまったくないほうがいいというのは考えればわかる。が、父との関係の維持ということで考えれば、たしかにエクスキューズではある。父親は離婚しようと永久に父親ということですね。
先輩の母親を厳しく批判するならばそのエクスキューズに逃げたと言うことはできますが、さして意味を持つとも思えません」
「それぞれの事情を鑑みて、ね」
さて。
ここにさらなる補足材料を足すかどうかは私に委ねられてはいる。
『捨てた』を強く補強するほとんどエビデンスにちかい補強材料だ。
しかし、やはり現状では開示すべきか判断がつかない。
いや待て、判断がつかないなどと――。
「ぬかったね、名探偵」と第4の謎が思考を占拠する。
抜け目がないことである。
「そもそも思考や感情はシームレスだからね。抜け目があるほうがおかしいんだよ」と第4の謎はイニシアティブをとっているかのような口ぶりだ。
「ですが、名探偵。あなたの一部としてこれだけは言っておかねばならないんですよねえ」と荒野が口を開いた。
わかっている。
私のことだ。その事実に気づかないわけがない。
そもそも荒野、おまえはさっきもノーマナーに出て来て似たようなことを言った。
「そうですね。あなたが秘匿しているその補強材料とやらは、あなたが秘匿しているんですよねえ。そこにはじつは安賀多先輩は関係がないんです。だって――」
そうだ。
彼女がどう思うかは、私にはわからないのだ。
にもかかわらず、私はエビデンスから読み取れる補強材料を、私自身の意志で開示していないのだ。
ひとのことは言えないものである。
これではまるで、私が犯人のようではないか。
「自覚がおありのようで。たしかに忠告はしましたよ、邪智暴虐な王」と荒野はこともあろうか捨て台詞を吐いた。
私が荒野とやりあっているあいだ、結果としてぼんやりとした沈黙になった。
まるで追撃のように口を開いたのは安賀多先輩だった。
「では依頼の謎・『捨てた』をまとめてくれたまえよ、名探偵」
もうわかっているのに? とは私は言わなかった。
感情を鎮める手段として事実を正しく整理されたいときはあるかもしれないからだ。
「安賀多先輩は最初から父親がなにを黙っていて、母親がなにをしたのかをほぼ察していた。それでいてなお偽悪的に『捨てた』と言ったわけです。本来は別れたと言えばいいことを、母親への忖度でもって『捨てた』と言った。明確にポジショントークをしたということですね。
淡田彗星が『捨てた』のは、早瀬莉子に対する恋愛感情が先輩の母親に対するそれを上回ったからと捉えるのが妥当でしょう。
20年も時間が経っていますからいささか弱さは否めないが。ただこれからディテイルをつめる構造的に最後の謎・『過去のすれ違い』がその感情の源泉です。淡田彗星は自分の差し替え前の原稿を読ませれば、安賀多先輩にある程度の感情を示すことができると考えたわけです。
妥当かどうかは先輩が決めればいい」
「気づかないのが不自然なほどに、特筆することはないありふれた話なんだろうね」
「ぼくにとってはもちろんそうですが、価値は依頼者である先輩が考えることです。しかし、前提として『捨てた』という事実に対してなにも知らないふりをするにはあなたは聡明すぎる」
「鴫沼住春に聡明と評価されるのは悪い気はしないが、本当に確信があったわけではないということは言っておくし、これを認めたあとでさえ、母親に対する悪感情はないということも言える」
「ぼくが言えるのは、ぼくは先輩を説得するつもりはないということだけです」
「一般的に見れば父はわたしを気づかってはいるね?」とすこしだけためらって安賀多先輩は訊いた。
「ええ。淡田彗星にとって安賀多先輩はケアすべき対象であるとはっきり認識されていると言えるでしょう」と私は言ったが、余計なことを付け加えてしまう。「ただ、先輩は淡田彗星にもっと怒ってもいいとも思います」
「結果的に離婚したんだから強くは言えねえが、賢章は安賀多のことを気にかけてるよ、まちがいなく」と父親側のポジションにいるしばっさんが口をはさむ。
「まあ、一定はそうでしょうね」と安賀多先輩は言った。
「とかく、これで『捨てた』のディテイルは完全に埋まったと言っていいでしょう」と私が言うと、
「1点、感想を述べてもいい?」と安賀多先輩がぽつりと言った。
「どうぞ」
「きみは不躾でよくわからない独自の倫理を持っていて社会的に円滑な関係性を初対面の人間と行うことにはたしかに難があるのだろう。ただ、致命的ではないとも言える。あまり前評判とあわない」
「それについては、どちらかと言うと今日が特殊なんだよ。いつもは宮田がいないと話にならないが、今日は宮田がいたほうが話が早い。このくらいの差がある」としばっさんがまた口を挟む。
「それはわたしにちょっとやさしい、と理解していいんですかね」と安賀多先輩はおどけて言った。
「諸君、そういう話はぼくのいないところでするものだ」と私は指摘して会話を終わらせる。
とくに指摘したくはなかったが、私のアイデンティティに関わるため致し方ない。
何度でも言うが私は私として独立完成しており、なにかに依存はしていない別個たる存在である。
とくに安賀多先輩にいつもよりやさしく接する傾向があるという理解は大きな誤解である。
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