13話:捨てた2
しばっさんが意外に時間をかけて戻ってきたので、時計は完全に12時を回っていた。
「すまん、ちょっと教頭につかまった」としばっさんは席につきながら言った。
ああ、そういえば教師とは職業であったと私は思った。
この教師は油断をするとすぐに教師であることを忘れさせてくるので、普通に接していると思いもよらず現実の確認をすることになる。
推理小説における類型的パターンでは、この時間でしばっさんはなにかしていて欲しいところだ。だが、単純に教頭につかまっていたのであろう。この教師の憎めないところである。
「ちょうどいいタイミングだよ」と私は言った。
「莉子が来ることは?」としばっさんは時計を見た。
「伝えてある。部室で話を聞く」
「わかった。それで、それまでなにをしようとしてるんだ?」
「『捨てた』のディテイルを詰めるところだ」
「なるほど」としばっさんは言ったが、とくに意味のないことばだった。
「さて」と私は言う。
もちろん、ディテイルを詰めるのが探偵の仕事だからだ。
「安賀多先輩にここからは話を伺います」
「わたし?」
「そうです。捨てたと偽悪的に形容した安賀多先輩に、です」
「なるほど。依頼者がディテイルを語るということはあれだね、わたしは信頼できない語り手なのか」
「もし先輩の一人称の物語であればそうでしょうね。自覚してないタイプかもしれませんが」
ここで信頼できない語り手などというミステリ用語が出てくるということは、あなたは比較的読書をしていると考えられる。その場合に幼少期から活躍している自分の父親の作品をすべて読んでいないということは事情を聞く価値が生まれそうですよ、と指摘してもいいが、無益なので止す。
依頼者が有能であることに立脚するのは、探偵としてのマナーが悪い。
「その場合だとあなたの抱えている開示してない補足情報がフェアネスを欠いただけの愚行になりえますねえ」とノーマナーな荒野が私の視界の外から語りかけてくる。
そんなことはもちろんわかっている。
だが、私も信頼できない語り手として、それをいまのところ黙っているのだ。
「ところでですよ!」とやはり宮田が待ったをかけたので、私は荒野を振り払う。「先生が隠してた原稿はいつ出てくるんですか!?」
「いったん置く」
「いや、イッタンオク、じゃないですよ。置ける空気じゃなくないですか!?」
「断言しておくが置ける空気だった」
「そんなことあります? 先生が隠してるものがわかったらオッケーってことですか?」
「『教師の隠しごと』の半落ち部分はまさにそのとおりだ。隠していたアイテムはすでに明らかにされている」
「それを見たらつぎに進むじゃないですか?」
「それを見た先のルートには『捨てる』はない。『過去のすれ違い』がある。そして、依頼者は『捨てる』から詰めることに納得している。これでいいか?」
むう、と「む」と「う」を正確に宮田は発音した。
当然、納得はしていないという態度であるが、依頼者を持ち出されては納得するしかないのが宮田だ。
根本的には自身の疑問より他者を優先する。いいやつと表現するのが適切だろう。
「それではあらためて」と私は言った。
私はこれから、先輩がここに来る前からすでに理解していたことを確認する作業をしなくてはならないのだ。
あまり宮田をかまっている暇はない。あまりやりたくはない、と言っても差し支えない作業だからだ。
さきほどしばっさんとの確認はただ面倒だっただけだが、この先輩への確認作業はどちらかと言えば気乗りしないたぐいのものだ。
経験則オンリーで断言すると、この感じがするときにはロクなことがない。
「まだ国立発表は終わってませんし、私立もいくつか発表は残ってますが、依頼にやって来るくらいなので、安賀多先輩の受験はもう終わってるんですね?」
「指定校推薦でね。きみからしたら必要性を感じない制度かもしれないけど」
「そもそもぼくは早稲田には興味がないですね」
「村上春樹は読んでるけど」と安賀多先輩は私が窓辺に置いた本を見て言った。
ここに先輩が来たとき置いたままだ。
ずいぶん前のことのように感じられもする。
「藤原伊織も好きですよ、ぼくは」
「この流れだとふつう大江健三郎じゃない?」
「どこがふつうなのかはわかりませんね。ぼくは大江が好きじゃない」
安賀多先輩はそこには触れず、「でも、なんで指定校って言っただけでわかったの?」
「九生には早稲田の指定校枠があることは全校生徒知ってるので、選択肢に入るのは不思議はないでしょう。そして淡田彗星は早稲田出身ですから、可能性は他に比べて至極高い」
「そんなに父親が好きなように見える? そこが『捨てた』のディテイルだと考えているわけかな?」
「そうですね。父親絡みの依頼をしてますからね。もはや可能性の問題とも言えない」
「嫌いだから頼んだのかもしれない」
「それはここまでの会話からして無理がある。ただ、安賀多先輩がその感情を表面上好きと形容しても嫌いと形容しても、ぼくにとっては同じことなんですよ。ぼくにはどちらかなんてわかりはしません」
「好いているか嫌っているかわからないってこと?」
「そうですね。他人の本心はまるでわからない。ただあなたは感情に起因したアプローチをしているわけなので、淡田彗星に関心があるんですよ。それは表面上、好きと言おうが嫌いと言おうが、ぼくにとってはほとんど同じことです」
「まったくわからない」と安賀多先輩は完全に不同意の構えを見せる。
「わからないのはお互い様です。好きだろうが嫌いだろうが、大きく感情が揺れていて、それにフタをする気がない。つまり、あなたの進学先は早稲田です」
「論理の飛躍が見られますねえ」と安賀多先輩がなおも抗議する。
「経験則も使うんですよ、ぼくは。わからないんだから、他人の感情なんて。多くそういう判断をするという経験から見ているにすぎない」
「経験則的にわたしは早稲田に進学する。あんまりよくないけど」
「関わりたくないほどの関係だったときに、この依頼は成立しづらいんですよ。そんなことを知ってどうしますか? でおしまいです。柴田フィルターを通した上でここに来てるわけですから、あなたが事情を知る意味があるかもしれない、とそこのおっさんは判断した。以上のことから、つぎの重要な事実が確定する」
ほんのすこしだけ、私は呼吸を整えた。
もっと手前で振り払ってもいいはずだが、どうにも安賀多先輩が相手だとやりにくい。
「安賀多先輩は淡田彗星と定期的に連絡を取れる程度の関係性で、母親はそれを容認している」
「それはそのとおりだけど」
「そもそも名字は安賀多のままですしね」
「たしかに父との関係は悪くない。その意味ではきみの言うとおり偽悪的だと言うことはできるかもね」
「安賀多先輩と母親のあいだでは淡田彗星は決してアンタッチャブルな話題ではなく、人生の岐路である進路決定においても、プラス方向にバイアスをかける程度の信頼はあるということになる。
ありていに言えば、あなたたちを捨てた父親のことを、あなたもあなたの母親も完全には憎んでいないということです」
「お母さんは離婚したくなかったし、離婚したあとも憎んでまではいない。ということをわたしは知っていた、という主張?」
「ちがいますか?」
「離婚の何年か前からすごくいい関係だったとは言い難いと思ってるけど」
「夫婦関係が離婚の事由となる程度には破綻していた?」
「まあ、破綻していたとまでは言えないと思うけど……。正確な感情なら訊いてないからわからない。とくに父は本当に離婚についてはあまり語らない。だからこの依頼になったわけだけどね」
「いまのことばにもあらわれていますよ」と私は指摘する。「先輩が知りたいのは淡田彗星の離婚についての考えであって、『捨てた』というバイアスにまみれた構造ではない」
「……なんだか押し切られた気がする」と安賀多先輩はなお不満足そうである。
「その防衛感はこの話が先輩にとってあまりいいものではないことを示唆しています」
「わたし防衛してる?」
「理解をできるだけ拒んでいるようには見えますね。もしかすると安賀多先輩の気持ちというものを確認する必要があるかもしれません」
「なんか告白されているみたいだね」
「まったく」
「でしょうよ。それで、なにを答えれば確認になる?」
「先輩は淡田彗星が嫌いですか?」
「ノー」
「先輩は淡田彗星が再婚すると嫌ですか?」
「んー……イエスかな。いやでも、ノーかな。父さんが父さんのことを決める権利はあるわけだしね」
「それはイエスと言ってるように聞こえる」
「だから、イエスって言ったよ」
「ノーとも言いました」
「機械かなにかなの、きみは」と安賀多先輩は笑った。「とめようがないじゃない」
「一理ある」
「相手はその早瀬莉子さんだよね?」
「この登場人物構成だとそれ以外なくないですか?」
「なんで再婚しないの?」
「一般的には、安賀多先輩の進学か経済的独立のどちらかでも待っているのでは。今後については、今回の安賀多先輩の反応を見て考えるつもりとも捉えられる。そのあたりは、淡田彗星本人に訊いてみればいいでしょう」
「離婚したんだから、さっさと再婚していいのにね」
「さきほどの回答と齟齬が見受けられます」
「見受けられない。個人の感情的には再婚は嫌だけど、父さんの選択はとめられない」
「失礼しました」と私は言った。
感情的にノーならば「さっさと再婚していい」ということばは矛盾ではないかと考えられるが、やはり指摘に価値がない。
結果、めんどくさかったら謝っちまえよ、という一般論を適応することにした。
「シデ先輩が謝った……?」
「風邪でもひいたか?」
と宮田としばっさんがほぼ同時に反応するが、私は一般論を適応しただけなので、実質謝罪はしていない。
ふたりとも浅はかである。
「まあ、納得しよう。わたしはたしかに捨てたと言った。それでも、わたしもおそらく母も父を憎んでいない」
「そして、まだ淡田彗星について先輩は気づいていないとしている点があります」
「まだあるのか。わたしにも困ったものだね」と安賀多先輩は自虐的に笑った。
「これはここまでのものに比べれば確度の低い推論ですが、先輩と淡田彗星は九生市で会うこともあるんじゃないですか?」
この推論に関しては、発さなくてもいいことではあった。
いくつか確定に至らないファクターがあり、いわば下衆の勘繰りの域を出ない。
「むしろ東京では離婚してから1、2回しか会ってないかな」
「そのときに彼がどこから来ているか、気づいてるはずですよ。彼の出身地ということを加味しても、こんな地方の寂れた工業都市にベストセラー作家さまが定期的に来る理由は多くない」
「そもそも娘に会いに来るのは理由にならないです?」と宮田が疑義を呈する。
まずまずの疑義だが、あまり褒めても喜ぶだけなので止す。
「淡田彗星がいくら稼いでいるか概算してみれば、経済的には娘に毎週でも会いに来るのは難しくないのはわかる。もちろん、その可能性はなくはない。ただこれまでを考えれば、もっと合理的な移動の理由がある」
「あ!」と宮田は言った。「早瀬莉子さんが九生にいるからか!」
「そうなるだろうな」
そして、淡田彗星は早瀬莉子と九生市近辺で会っている(もしくは半同居している)という点は、安賀多先輩にとってはさらに好ましくないであろうべつの事実の推測材料になる。
つまり、母親が安賀多先輩になにをしたか、だ。
「そうなるよね」と安賀多先輩は渋々認めた。「事実、あんまり考えないようにはしてたから、気づいてなかったとも言えるけど」
どうやらまだ、べつの事実については思い至っていないようである。
それを指摘せねばならない、というのがもしかすると表情に出てしまっていたのかもしれない。
表情から思考を読まれるなど、言語道断の失態とも言えるが確定していないのでやはり失態とは言えない。
「つまり、お母さんはだいたい全部知ってるってことになるね?」と安賀多先輩は不安そうな、寂しそうな、あるいは怒りも持っているといった表情でしゃべった。
「もちろん。そして、これからさらに言わねばならないことがあります」
「あんまりいい話ではない?」
「そのようにぼくの主観では理解しています」
「嫌だなあ……」と困ったように安賀多先輩はあいまいに笑う。「お母さんが全部知ってるなら、教えてくれればいいのに」
「ものごとを明かす指針がそれぞれにあるということは、一般的には理解できますからそう悲観することでもないと思いますね」
「シデ先輩が一般論を!?」
「むしろよく経験則に基づいた一般論は述べてるだろ。今日も何度か言った。おまえは普段、ぼくのなにを聞いてるんだ」
「感じと雰囲気と響きです!」と宮田は即答する。
「雰囲気は聞こえねえよ」としばっさんが言った。
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