9話:教師の隠しごと3
私はホワイトボードの謎の女と書いてあった部分に、「早瀬莉子」と書いた。
さすがにこの関係図は明確すぎて疑問の余地もない。
「『彗星』は淡田彗星のペンネームですよね、もちろん?」と宮田がなぜか疑問形で言った。
「それ以外になにがあるというんだ?」と私は当然疑問形で言った。「宮田、正直に言うと、ぼくはまさか見た瞬間に『彗星』というタイトルに目をつけないとは思わなかった」
「だって、淡田彗星のスイセイがこの字だとそもそも知らないですし!」
「事前に想定していたのが、惑星かインクの種類か生物知識かどれでもいいが、この字を見た瞬間に上書きするものだ、ふつうは」
「シデ先輩のふつうを押し付けないでくださいよー」
私はとりあえず放置しておくことにし(回収する気もないが)、あまり盛り上がっていない依頼者のために要点をさらに整理しておくことにした。
これも涙ぐましい探偵活動の一環だ。
「さて、この部誌62号についてですが――」と私が話を再開したところで、
「些事だということはわかるが、すまん。その部誌には『雲海』という名前がある」としばっさんがとても控え目に言った。
しばっさんは自身が言ったとおり、些事だという自覚はあるのだろう。
しかし、彼は彼なりにその『雲海』に愛情を注いでいるということでもある。
「顧問の意見だから尊重しよう」と私は言った。
ちなみにこの『雲海』はある冬の日の朝早く、学校のグラウンドから街を眺めたときに雲海のように霧煙っていたからだということが3号に記してある。たいへん母校愛に溢れたタイトルだ。
さして朝早くから活動するわけでもない文芸部員がなぜ冬の早朝にグラウンドにいたのかはさだかではないが、かつては学校敷地内に寮も存在していたので、命名した生徒は寮生だったのかもしれない。
もちろん、それで私がこの部誌に愛着を持つ理由にはなりえない。
「『雲海』62号に掲載されている作品で依頼のディテイルとなるものは2点。早瀬莉子の『彗星』と淡田彗星の『花の散る季節のきみへ』です。著者名は当然、本名の安賀多賢章。この作品には情報負荷はそれほど大きくないと見ています。極論すれば、読まなくても問題はない」
「いや、シデ先輩、いまから読むから! ネタバレは戦争ですよ!」と宮田が言ったが、私はそれには反応しない。
「安賀多先輩は作品についての情報がある場合と、ない場合はどちらがいいですか?」
「父さんの原稿を作品として味わうには、という前提じゃないよね、もちろん」
「コンテクストというものがありますから、通常は先輩の理解で一般には正しいはずです。例外がいて驚きましたが」
宮田が口を尖らせる。
「じゃあ、読むに当たっての注意点だからあったほうがいいんじゃないの?」と安賀多先輩は言った。
つまり、なぜそのような自明なことを訊くのかという質問であろうと思うが、しかし、選択権は安賀多先輩にあるので私のほうが正しい。
「先輩は出版された『花の散る季節のきみへ』を読んだことがありますよね? しかも1度や2度ではない可能性もある」
「そんなには読んでないと思うけど……まあ、何度かは読んだね」
「その内容は、この『雲海』62号に載っているものとは大枠で似ているが、根本的に異なる、という注釈は世界で先輩だけに必要です」
「うん、まあ、そう言われればわかるよ。つまり、ヒロインがちがうってことね」
「そうです。『花の散る季節のきみへ』は、ここに掲載されている依頼のエビデンスとなるものと、それから安賀多先輩もすでに読んでいる淡田彗星が大学生のときにエビデンス版を下敷きとして書いたいわばフレーバー版がある。
あとで『過去のすれ違い』のディテイルを埋めるときに本作は出てきますが、ここではフレーバー版とエビデンス版においてヒロインがちがうということが依頼者にとってもっとも重要だと判断しました」
「きみがわたしには多少なりともショッキングな内容だと思ったということかな?」
「先輩がどう捉えているかはわかりませんが、エビデンス版とフレーバー版はべつものであるということは、事前情報としてあってもよいとぼくが思った、というだけです」
「シデ先輩、ほとんど同じこと言ってますよ!」と宮田はいつもなら笑うように言うところだが、あまり愉快ではないささくれがあるように感じられた。「ヒロインがちがうとなにが問題なんですか!」
「個人的な情報の受け取り方が異なる」
「彼の言うフレーバー版のヒロインがわたしの母ってことよ」と安賀多先輩は言った。「まあこれは両親に確認したことはないけどね」
ああ、なるほど、と宮田がトーンを落としてつぶやく。
「ただいまの流れはきみの前評判からすると違和感はあるけどね」と安賀多先輩は言った。
「どこのだれになにを言われたかは知りませんが……いや、まあぼくにとってもいささか不思議ではありますよ」
「前提はわかった。わたしにとってこれは愉快ではない小説なのかもしれない」と安賀多先輩は私の感情をためすように笑った。「そして、そうだな……ご配慮いたみいるよ」
私はその安賀多先輩についてはなにも思わないと自称してもいいが、荒野の片隅がまた、いやー、いつもとちがうなー名探偵! と騒いでいるので、私自身がなにかは感じているのであろうと推測する。
まさか自身の感情を推察することになるとは思っていなかったが。
「まあ、それは読めばわかることですし!」と宮田が取り繕うように言った。「いまは柴田先生が2本……以上? 原稿を持ってるってことですよね」
「そうだ。そのうち1本はこのエビデンス版『花の散る季節のきみへ』の原稿だ」
「でも、おかしくないですか? 隠してなくないですか? 載ってません?」
「順を追う。まず早瀬莉子がこのエビデンス版を見たときの感情は推測できているが、それは『過去のすれ違い』のディテイルに譲る。彼女はこの作品の違和感に気づいた」
「読んだだけで?」と宮田は役目のように質問を重ねる。
「これは読めばわかるが、エビデンス版はとてつもなく出来が悪い。例えば『雲海』の60号や61号あたりの安賀多賢章作品よりも数段劣る」
「調子が悪かったとか?」と宮田が言う。
「卒業部誌だぞこれは。そして淡田彗星は現役で早稲田に進学しているわけだから、すくなくとも10日前後は書く時間があった。国立組に合わせれば1ヶ月くらいあってもおかしくなかった」
「しれっと淡田彗星情報はさまないでください……」と宮田。
「この作品は数時間で書かれている程度のひどい出来だ」
「でも、それでなんで早瀬莉子さんはおかしいと思ったの?」
「ですから、出来が悪いんですよ、このエビデンス版は」
「……早瀬莉子さんは父の原稿のよしあしがわかるの?」と安賀多先輩はいやなところでカンがいい。
「……いったん、そう思ってもらって問題ありません」
「歯切れが悪いな、名探偵」
「やりにくいことこの上ないですよ」と私は言った。
調子が悪い、と私が言っても許されるのだろうか。
いや、それは不正確だ。調子が悪いわけではない。
現に私にはすべてのパーツはすでに揃っている。
提示の仕方がわからないだけだ。
「かりに早瀬莉子が原稿のよしあしがわかったとすると当然の疑問が生まれます」と私はイッサイザッサイを飲み込んで言った。
「なぜ出来の悪い作品を父が提出してきたのか、だね」
「過不足ないです」
「そんなの賢章さんに聞いたらおわりじゃないですか!?」
「いや、おまえはもうひとり登場人物を忘れている。当時のふたりにとってとても信頼できる人物がいたんだよ。こと創作に関しては師匠と言っていい。その人物がなぜか手抜きに見える不出来な原稿掲載を許可している。早瀬莉子にとってはこれも不思議だった」
「本人に問い詰めるのハードル高いしね」と安賀多先輩が付け加える。
「そうなります。つまり、本人に訊くよりもより質問ハードルは低く、それでいて正確にいろいろな疑問が解消できる。掲載予定の原稿を見た彼女は――」
「顧問に問い詰めに行った」といくぶんか冷たく安賀多先輩は言い放った。
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