8話:教師の隠しごと2
私は立ち上がるとしばっさんが立っている近くにあったホワイトボードを引っ張ってきた。
これは助手の役目ではないかとやや思ったが、他人への過度な期待は軋轢を生む。
「まず淡田彗星と先輩の母親。ここは依頼者にとって明白なので、そのまま母親とします。そして、安賀多先輩」と私はわざわざ、ていねいに、わかりやすくホワイトボードに関係図を書いていく。
家系図のように「淡田彗星」、「母親」と並べて書き逆三角形になるよう「安賀多先輩」を配置。
安賀多先輩の上に「依頼者」と書いて丸で囲む。
安賀多先輩と淡田彗星、母親とのあいだにそれぞれ線を結んで「父」「母」と書き込む。
母親へ伸びる線に「母」と書かれて、宮田が微妙に笑った。
「そして、そこの隠しごと教師。あとは謎の女。登場人物はこれだけです」
安賀多先輩の家族ブロックとはすこし離して、「柴田」、「謎の女」、と書き、淡田彗星から2本の線を伸ばす。
それぞれ線の下に「師弟」「同級生」。線の上側に「教師の隠しごと」「過去のすれ違い」と書いて四角で囲む。
ついでに安賀多先輩と淡田彗星のあいだの線に「捨てた」と四角で囲んだ文字を足した。
果たして、過不足がない完全な図だった。
「で、ここにいまから名前を与えます」と私は謎の女という文字をクリーナーで消す。
「きみは彼女と知り合いなの?」
「いや、知りませんよ。ぼくもいまからその名前を知ります」
「柴田先生に訊くってこと?」
「それでもいいですが、しばっさんの情報開示負荷にも多少配慮してべつのアプローチから行きましょう」
「ご配慮いたみいるよ」としばっさんはずいぶん投げやりだった。
これで関係はこれ以上ないほど整理されたわけであるが、どう見ても登場人物はすくない。
やはり図にする必然性は薄かったように思うが、書いてしまったのでもういい。
私は部室の隅にあるガラス戸のついた棚から部誌を3部引っ張り出してきた。
およそ25年ほど前の文芸部誌で第62号と記してある。
通常、文芸部では卒業時に部誌が作られる。その他イベントで追加されることもあるため、年間2号程度が平均だ。
受験が完全に終わってから取り組む生徒もいるため、基本的には卒業式のあとに完成する。
学校の方針もあり校内のありとあらゆる資料は過剰に保管されがちではあるが、しばっさんが顧問になってからは、部誌の保管の丁重さには拍車がかかった。62号は25年たったいまも充分に読める。
完全に余談ではあるが、丁重とはいえ保存状態には限界があって、1957年の創刊号は文芸部員が入部してから1度くらいは手に取るものの、あまりに古いのでめくるかどうか躊躇うというイニシエーションが存在する。
私は当然創刊号もすべて目を通しているが。
「この62号はたいへん特別扱いされていて、なんと部室内に3部も保管してあります。すでに手書き原稿のコピー印刷ではないし、データも残してあるだろうからここまでスペアを保管しておく意味は皆無ですが」
「話の! 先が! 見えない!」と宮田が叫んだ。
「だから名前の特定だろう」とまっすぐ最短距離で説明をする私に苦言とはなんたることか、と思いつつ私はきわめて冷静に返す。
「62号が大事ってことですね!」
「かしこいな、おまえは」と私は言い捨てて「かしこいおまえに説明するが、この部誌62号は今回の重要なエビデンスでもある」
宮田は褒められた、という顔をしているが当然そうではない。
だれも指摘はしないが。
「この部誌は謎の女の名前が載っているのはもちろん、同時にこの依頼に登場する最初のエビデンスであり、前提条件の多くを含んでいるものでもあります。読んでなければ、ディテイルは詰められない」
「いま読む?」と安賀多先輩は手にとって尋ねる。
「先輩はおそらく読んだことがないでしょうからあとで読んでください。さしたる長さではない。宮田は淡田彗星の『花の散る季節のきみへ』は知ってると思うが」
「いや、知りませんよ、読んでないです!」
「うーん、すごく微妙な顔をしている顧問がいるね」と安賀多先輩は言った。
「文芸部員は全員読んでいいと思うんだけどな、俺は。出版物の元になった作品なんてそうそう見られないぞ」
「『街と、その不確かな壁』とかあるけどね」
「読点ついてるほうか?」
「読点ついてない方はまだ読んですらない。『蛍』もそうだし、『ねじまき鳥と火曜の女たち』もそうだ」
「俺は『四月のある晴れた朝に100パーセントの女の子に出会うことについて』が好きだぞ」
「しばっさんの好きな作品じゃなくて、せめて他の作品の元になった作品を挙げてくれ」
「手厳しいね」としばっさんは笑った。「そもそも淡田彗星の『花の散る季節のきみへ』は高校生のとき書かれてるんだから、すべて発表されてる村上作品とはまた意味がちがうだろ」
「まあ、ぼくとて宮田が不勉強なことは否定するものではない。文芸部員なら読んでいるべきではある」
「ええー、結局私に刺さるんですか!?」
「その様子だとそもそも出版された『花の散る季節のきみへ』もおまえは読んでないんだろう?」
「え、結局部誌に載ってるのが出版されたんです……? よくわからないけど、部誌読んでないんだから、読んでるわけないと思いませんか?」
「無知を根拠とする反論は恥ずべきものと知れ」
「……なんかシデ先輩、厳しくないです?」
「いや、いつもこんなだろ」としばっさんが私をかばうように言った。
淡田彗星の話になると与し易い男である。
「いかに秀逸なぼくの記憶力をもってしても、これら部誌にある凡百の作品の著者名などは覚えていられない」と私は前置きして、62号の目次部分を開いてから長机に置いた。
目次には作品名、著者名と学年、掲載開始ページ数が載っている。
高校の文芸部誌のフォーマットは他にサンプルがないが、特筆すべき点はとくにないと考えていいだろう。
いくつかの悪くない作品についてはタイトルはもちろん、部誌の号数や著者名も記憶しているが、私が覚えていないということはすくなくとも謎の女といま呼称している人物は優秀な書き手ではなかったということだ。
この依頼における彼女の登場人物としての特徴は、その点を問題にしない。
開かれはしたものの、安賀多先輩は自分の持っている部誌と机に置かれた開かれた部誌のどちらも見ようとせずに私のことばをずっと待っている様子だ。
先輩がなにを考えているのかは観察してもよくわからなかった。
宮田はすぐに目次ページを眺めたが、検討もつかないという素振りですぐにやめた。これに関して言えば、1点あきらかなエビデンスが記載されているわけだから、すぐに気づくべきであって、明確な落ち度である。
私も宮田が見落とした通常読んだその瞬間にわかるその1点を敢えて落として名称を確定させる。
「部誌62号にある淡田彗星と同じ代で卒業部誌に寄稿した文芸部員は5人。その中で女性でかつ、それほど作品が長くないのは――
ちなみに1点情報を落としたのは、ただの演出であり、依頼者ファーストの涙ぐましい探偵活動の一環である。
「彼女が淡田彗星のファム・ファタールだ」
私の演出が成功したのか失敗したのかはまるでわからない。安賀多先輩はやはり部誌を見ていない。
彼女は名前がわかったからなんなのだとは言わなかった。
謎の女のほうがまだ感情の宛先がなくて穏やかでいられた気がするということなのかもしれないが、そんな複雑な感情表現を表情から観測することはできない。
謎の女が早瀬莉子という名前を持ったところで、安賀多先輩の中で印象は1ミリも揺らがなかった可能性も充分にある。
「彼女についてのディテイルをこれからお伝えしていきますが、淡田彗星のファム・ファタールだということは疑いの余地はありません。この部誌の目次だけでもそれはわかる」
目次では最後から2番目。その部誌の末尾付近、おそらく締め切りギリギリに足されたであろう掌編のタイトルは、もはやわかりやすすぎるほどにそれ以外をなにも語らなかった。
『彗星』 早瀬莉子(3年)
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