第六件 逃走

「…で、よ?わざわざ教室の外に出て…貴方、本当に何を聞くつもりなの?」

 場所は先ほど話していた三年二組の教室から出て数歩、廊下である。扉の前では将島先輩に聞かれるかと危惧して、少し離れた窓際で立ち止まっていた。

 出てみると窓から差し込む日差しが強くなってきており、気温が上がっていることを体で感じることができる。

 目の前で見た目に反して強気にものを言う彼女に、少しばかり恐れをなしそうになる。

 この調子で将島先輩に聞いていれば、きっと彼女は本気で私に殴りかかっていただろう。臨機応変に対処して本当に良かったと心から思った。

「そういえば…貴方のお名前はお伺いしていませんでしたね。聞いてもいいですか?」

 恐る恐る聞いてみる。今の私に対する彼女の不信感はほぼ最大と言って差し支えない。出来る限り丁重に対話をしなければ本当に何も聞き出せないだろう。

 先輩に対する口調にしてはあまりにも丁寧な私に、彼女は嫌々口を開いた。

「…上加世田桃香。で、その聞きたい話ってのは?」

「えっとその前に、名前の漢字を教えてくれませんか?僕、ちゃんと字体で覚えないとダメなタイプなので」

 私がもう一度名前の説明を求めると、目の前のカミカセダは再び顔を顰めて答える。

「チッ…はあ。上下の上に加えるの加、世界の世に田んぼの田。フルーツの桃に香るの香…で、いい?」

「え、ええ。教えていただいてありがとうございます」

 今舌打ちを打たれた気がするが、あまり気にしないでおこう。気にしすぎると調査にも身が入らないからだ。決して、現実と向き合いたくないからではない。断じてである。

 私はさらに不機嫌になった上加世田桃香に対して、本題の疑問を一つ問う。

「…では、上加世田先輩。将島先輩は遠島に陸上の百メートルの記録を抜かれたと話に聞きましたが、それによって大会に出られなくなった…とか、ありますかね?」

 ビクッと肩を跳ねる上加世田。

 図星でも突かれたかのように目を見開いて驚く彼女に対して、話す口を止めずに言葉を投げかける。

「そしてその出られなくなった大会は、三年生にとって最後の大会だった…とか」

「…」

 全ての言葉が出終わると、まるで空気が凍ったかのように皆の口が開かなくなった。

 それは私の推論が間違っていないことを示しているも同然の反応である。これで一つの仮説が新しく出来上がった。

 何も言わない上加世田先輩と遠島。いい加減この空気も耐え難いものになってきた為、渋々私が口を開く。

「その反応だけで大丈夫です。ありがとうございました」

 話を切り上げて教室の中にいる将島先輩に挨拶へ行こうとすると、横切ろうとした上加世田桃香に呼び止められた。

「ちょ、ちょっと!それを聞いて何になるっての!?しかも、何で分かって…」

「聞いて何になる、ですか」

 正直に答えてしまえばまたもや彼女の怒りを買いそうだが、後はこの場から撤収するだけのため包み隠さずに答える。

「強いて言えば…犯人の動機が分かる、ですかね」

 そう言い終えると上加世田先輩は暫く固まったのち、言葉の意味を自分の中で解釈したのか私の言葉に苦言を呈そうとしてきた。

 私はそれを無視して三年二組の扉を開け、将島先輩の元へ歩いて行く。扉の向こうへ行った私に話しかける気はなく、上加世田桃香はただ教室の外で私を見ていた。

 私は彼女の方を見ることなく、将島杏子に別れの挨拶を告げた。


 将島杏子と上加世田桃香から逃げるように校舎内から離れた私達は、またもや公園に…ではなく、校内の給水場へと来ていた。

 この場所は部活動時には人が大勢くるが、なにぶん今はテスト中のため安心して内緒話をすることが出来る。

 遠島がゴクゴクと貯水タンクから水を飲んでいる最中、私は無駄に着て来てしまった上着のブレザーを脱いで畳んでいた。五月の半ばと言ってもここまで暑いものかと嫌味が出そうになる。

 遠島の水分補給が終わるのを横で待っている間に推論の整理でもしようと思っていたが、これでは頭が働かないため暫くゆっくり休憩しようと思う。

 私は疲れた脳を休ませるように貯水タンクが設置されている校舎の壁にもたれかかる。ザラザラしていて背中の感触はあまり良くないが、いかんせん壁がここしかないためやむを得ない。

 ふと目の前にある部室に視線をやる。それはサッカー部の部室であった。陸上部よりも大きな部室であり、部員の人数の多さをよく感じる。

 私の知っている陸上部員は四人だけだ。いくら残り数人ほどいようとも、あの部室の大きさではあまり部員はいないのだろう。そんな中に現れた遠島というイレギュラーの存在は部員たちにどのような感情を与えたのだろうか。

 嫉妬や気持ちの昂り、無関心や悔しさなど、恐らく色々な思いを胸に抱えたはずだ。

 そして彼女、遠島風華はその思いをどう受け止めたのだろうか。

 気づいていないわけがないだろう。きっと周りの嫌な視線に薄々だとしても勘づいていたはず。

 高校に入って初めての部活、そんなワクワクした思いを胸に入部してみれば、期待や嫉妬などの様々な思いを背負わされて…多分、色々と複雑な感情になっただろう。

 何か嫌な感情移入をしてしまっていた私の肩にポンッと手を乗せた感覚が伝わる。

「はい、次のお客様も飲んでいいですよ〜」

 ニコニコと悪戯めいた笑顔を見せて語りかける遠島。水を思う存分飲んで気分も良くなったのだ。口元に滴る水を見て自分も爽快な気分になる。

 そんなふうに笑う彼女と後ろの太陽を、私は眩しくて直視できなかった。

「ほな、遠慮なく飲ませてもらいますわ」

「なんで関西弁?」

 照れ隠しに慣れない冗談を言ってしまう。

 そんな冗談にお互い可笑しくなって思わず笑い出す。

 きっと遠島の感じた思いは、彼女自身にとってさほど大きな壁ではないのだ。

 自分に向けられる様々な感情を見ても、遠島風華は前に進むのだろう。我が道を行き、野望を果たすため。誰がどう見ようと、止まることはないのだ。

 これはあくまで私の想像で、もしかすると部員たちはそんなことを思っていないかもしれない。遠島自身も、こんなふうに立派な思考をしていないかもしれない。

 しかし、きっと、恐らく。遠島はそんな人間なのだ。私の見た遠島は、そんな奴だ。

 尊敬の思いを彼女に馳せながら、先ほどの真似をするかのようにゴクゴクと水を飲む。

 喉の渇きを鎮めるには過剰なほどに水分を補給すると、濡れた口元を手で拭う。口の中が水で潤わされた為、遠島に次の行動を伝える。

「それじゃ、次は聞き込み調査をするか」

 そう言い放つと、遠島は不思議そうな顔で言葉を返す。

「聞き込みって、もうさっきやったでしょ。まだ誰かに聞くの?」

「さっきのは陸上部の人だけだったろ?今からするのは昨日放課後にいた陸上部員じゃない人たちにだよ」

 今日の最終課題はひたすら色々な人たちに話を伺うことである。これがコミュニケーションの取れない者にとっては一番辛いものだが、今回は遠島がいるのだ。やる気と勇気が満ちてきている。やるなら今しかない。

「なら、とりあえず保健室に行く?アンタの東條先輩の疑いを晴らすにはそれが手っ取り早いし」

「そうだな…てか、人聞きが悪いな」

「ええ?本当のことじゃない」

 本当だからたちが悪いのだ。

 遠島にからかわれていると、背後から突然聞き覚えのある男の声が聞こえてきた。

「あ、あの!ちょっと良いっすか?」

 思わぬ呼びかけに私達は反射的に声のする方へ振り向く。

 そこには、いつぞやに見たユニフォームの窃盗容疑がある西園青年がいた。

「あ、窃盗犯の」

「だから違うって!」

 違うらしい。これは失礼した。

 しかし、そうか。ここはサッカー部の部室。彼がここに帰ってくるのも不思議ではない。きっと先ほどの教師との問答もひとまず終えてきたのだろう。

 一人で納得していると、すぐに自分が何を誓っていたかを思い出す。

 そうである。彼が犯人だろうとそうでなかろうと、今厄介ごとに巻き込まれるのは大変面倒なのだ。一刻も早く回避せねばならない。

 私は自然さよりも速さを重視して、彼からの接触を避けるべく逃げるフォームをつくる。そのまま勢いに任せて遠島の手を掴んで走り出した。

「ちょちょ、ええ!?」

 慌てる様子の遠島になりふり構わず走り続ける。後ろの方で青年の叫び声が聞こえるが、それも無視して地面を蹴り続けた。

 だが、少し過信しすぎていたようだ。己の足を。

 私は数分もしないうちに彼に追いつかれてしまった。

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