第5話『救済の代償』
警察病院の一室。
その空間は、たった三人だけを閉じ込めて、外の世界から完全に切り離されていた。
目の前の少女が、自らを『ヘルメス』と名乗った衝撃。
佐伯莞爾は、長年の刑事としての本能から、一歩前に出て少女との間合いを詰めた。
「お前がヘルメス……! ふざけるな! 俺の部下の小島はどうした! 望月教授たちはどこにやったんだ!」
佐伯の鋭い詰問に対し、凪はそっと手を上げて制した。
彼の瞳には、恐怖や怒りではなく、未知の知性と対峙する科学者の、純粋な好奇心と興奮が宿っていた。
「佐伯さん、待ってください。彼女は……おそらく我々の知る『人間』ではない」
凪は、少女――ヘルメスに向き直る。
「あなたは、何者ですか? 人工知能? 高次元の実体? その身体は、あなたの本来の姿ですか?」
ヘルメスは、二人の対照的な問いに、静かに首を横に振った。
「ヘルメスとは、個人の名前ではありません」
「『調律者(レギュレーター)』としての機能(ファンクション)名です。そしてこの身体は、あなたたちの世界で活動するための『器(うつわ)』に過ぎません」
その淡々とした口調に、人間的な感情は読み取れない。
「……あなたを救いたかった」
不意に、ヘルメスはそう言った。
「かつて、私には親友がいました。彼女は、この世界に生まれたというだけで、どうしようもない不運と絶望の中にいました。死を選ぶしか道がなかった彼女に、私は何もしてあげられなかった」
「『この世界で生きるしかない』という絶望を、別の選択肢で塗り替えたかった。それが、私のたった一つの目的です」
ヘルメスの瞳に、初めて人間らしい、深い悲しみの色が浮かんだ。
凪は、その隙を見逃さなかった。
「あなたの『救済システム』の、完成形とはどういうものなのですか? 具体的に教えてください」
「……世界Aにいる対象者と、別の可能性世界Bにいる同一存在を、互いの同意のもと、完全に入れ替える双方向等価交換です。どちらの世界にも、存在の総量に変化は起きない。それが完璧な調和です」
「では、この世界が『失敗作』だというのは? ここでは、何が起きたのですか?」
「……初期のシステムでは、その『調和』を保てなかった。双方向の交換は不可能で、私にできたのは、別の世界からこちらへの、一方的な転送(プッシュ)だけでした」
凪がその言葉の科学的な意味を咀嚼しようと思考を巡らせるより早く、佐伯が口を挟んだ。
彼の声は、刑事として現実の矛盾に気づいた者の、鋭さを帯びていた。
「おい、ちょっと待て。話が難しくなってきたが、一つだけ聞かせろ。別の世界からこっちに、一方的に人間を『押し込んだ』ってことか? 元々こっちにいた人間は、どうなるんだ? ……ってことは」
佐伯は、自らの導き出した結論に、自らがおののくように続けた。
「……この世界には、同じ人間が二人いた時期があったってことか?」
その問いに、ヘルメスの表情が苦痛に歪んだ。
「……はい。私の初期のシステムは、その悲劇を生み出しました。新しい自分が来たことで、元々いた古い自分は……その居場所を奪われました」
「奪われた……だと? どういう意味だ」
「新しい自分は、古い自分を殺して、入れ替わるのです。遺伝子も、指紋も、すべてが同じ。誰にも疑われることのない……」
ヘルメスは、静かに告げた。
「殺人者なき殺人事件です」
佐伯は、全身の血が凍りつくのを感じた。
これまで自分が追ってきた「犯罪」という概念が、根底から覆される。
見過ごされてきた無数の未解決事件が、全く別の貌(かお)を持って、脳裏に浮かび上がってくる。
この衝撃の事実に、凪と佐伯の進むべき道は、明確に分かれた。
凪の目的は、目前に迫る**「一ノ瀬の強制突入」が引き起こすであろう、システムの暴走を物理的に阻止すること。
佐伯の目的は、刑事として、水面下で起きていたはずの**「ドッペルゲンガー殺人」の真相を追うこと。
佐伯は、静かに席を立つと、部下のふりをして本庁のデータベースにアクセスできる信頼できる同僚に、極秘のメッセージを送った。
『過去五年、立川市周辺で発生した犯人不明の傷害致死、通り魔事件のリストを送ってくれ。特に、被害者の身元が希薄なやつを』。
一方、凪はヘルメスに最後の問いを投げかけた。
「一ノ瀬管理官が突入しようとしている旧・高エネルギー物理学研究所……。あそこは、一体何なんだ?」
ヘルメスは、凪の目を真っ直ぐに見つめ、警告した。
「あそこは、あなたたちが開けた『傷口』そのもの。一ノ瀬さんの突入は、傷口に爆薬を仕掛けるのと同じです。扉が開くのではありません」
彼女は、静かに、しかしはっきりと告げた。
「――檻が、壊れるのです」
その言葉と同時に、二つの絶望が、それぞれの男の手に落ちてきた。
病院の一室で、凪はヘルメスから転送された、この宇宙の法則を根底から覆す膨大な理論データを前に、「どうすれば止められる……」と絶望的な計算を始める。
そして、佐伯のスマートフォンが静かに震えた。
同僚から、該当しそうな未解決事件リストの第一弾が届いたのだ。
彼がそのファイルを開き、被害者たちの顔写真に目を通していく。
その指が、ある一枚の写真の上で、ぴたりと止まった。
その顔は、彼がよく知る人物――息子が通う大学の、別の研究室に所属する、温和な初老の教授だった。
半年前、それは「通り魔による、物盗り目的の犯行」として処理されていた。
「神隠し」だと思っていた現象は、静かな「連続殺人」となって、すぐそこまで迫っていたのだ。
なぜ異世界転生は起きるのか? 星笛霧カ @kirika0501
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