第3話『分岐点』
会議室は、絶対零度の静寂に凍りついていた。
デジタル・ゴースト
その非現実的な言葉が、百戦錬磨の刑事たちの思考を麻痺させている。
誰もが、目の前の異常事態をどう受け止めればいいのか分からずにいた。
その沈黙を破ったのは、乾いた笑い声だった。
「……面白い。実に面白い余興だ」
一ノ瀬 黎(いちのせ れい)管理官は、崩れ落ちるどころか、その瞳に危険なほどの闘志を宿していた。
彼はバン、とホワイトボードを強く叩く。
「未知のサイバー攻撃……『デジタル・ゴースト』だと? 上等だ。その化け物の皮、我々が剥いでやる!」
彼は、混乱する部下たちを一喝するように続けた。
「目を覚ませ! これはオカルトではない。デジタル偽旗作戦(デジタル・フォールス・フラッグ)だ! 正体不明の天才ハッカーが、物理学者を誘拐する一方で、ありえないサイバー攻撃を演出し、我々の目を『超常現象』に向けさせている! 目的は、捜査の攪乱と時間の遅延だ!」
極めて「現実的」かつ「知的」な、エリート管理官による力強い仮説。
超常現象に怯えていた刑事たちは、その明快な論理に安堵し、再びその瞳に捜査官としての光を取り戻す。
そうだ、俺たちは刑事だ。ありえない現象など追う必要はない。
人間が起こした「犯罪」を追えばいいのだ。
だが、全員ではなかった。
何人かの刑事は、不安げな視線を一人の男に向けていた。
このありえない現象を、唯一、予見していたかのような男――天野 凪(あまの なぎ)。
その視線を感じ取った一ノ瀬は、凪を鋭く見据え、決定的な言葉を口にする。
「これより捜査本部を二つに分ける。主流部隊は、引き続き私が指揮を執り、国際テロ事件として犯人を追う」
一ノ瀬は、侮蔑を隠そうともせずに言った。
「……そして天野巡査部長。君には、そのSF仮説を証明する機会を与えよう。遊撃班として、サイバー犯罪対策課の数名と共に、その『量子現象』とやらを徹底的に分析しろ。ただし、君たちの目的は、それが人間の手によるトリックであると証明することだ。いいな」
こうして、捜査本部は二つに割れた。
一ノ瀬が率いる、物量と権力を誇る【サイバーテロ・拉致事件班】。
そして、凪を中心とする、数名だけの【量子現象分析班】。
一つの事件、二つの真逆の捜査方針。
立川署の合同捜査本部は、静かな内戦状態に突入した。
***
「――コードネームは『ヘルメス』。三年前にスイスの銀行を襲い、二年前には某国の戦闘機データを抜き取った、国際的なサイバーテロ組織です。いずれも、この特異な暗号が使われていました」
警視庁サイバー犯罪対策課のオフィスで、一ノ瀬は各国の情報機関から集められた報告書に目を通していた。彼の指揮のもと、警察組織の力は遺憾なく発揮される。
ゲームの通信に偽装されたデータの暗号を解き明かし、過去の未解決事件と照合させ、ついに犯人像を絞り込んだのだ。
「間違いない。『ヘルメス』が、望月教授に接触し、新理論を共同開発していた。そして、全てを独占するために二人を消した。金の流れもそれを裏付けている。奴らはテロリストだ。感傷の入る余地はない」
一ノ瀬の断定に、部下たちは力強く頷く。
あとは、神出鬼没のテロ組織『ヘルメス』の物理的な拠点を突き止めるだけだった。
一方、凪と佐伯は、資料室で別の角度から『ヘルメス』を追っていた。
「……ダメだ。物理的な痕跡がなさすぎる。まるで箱の中の猫が、観測される前に箱ごと消えてしまったようだ」
頭を抱える凪に、佐伯が深くため息をつきながら言った。
「人間消失、ねえ……。こうなったら、うちのばあちゃんに頼んでみるか? 失せ物探しは得意中の得意だぜ」
「おばあさん、ですか?」
「ああ。九十八歳でいまだ現役の『拝み屋』だよ。神様だかキツネだか知らねえが、見えないもんとお話して、なくなった指輪だのへそくりだのを見つけ出すんだ」
凪は、その言葉を馬鹿にすることなく、真剣な顔で問い返した。
「興味深いですね……。その『失せ物探し』の時、おばあさんは何か特別なことを? 例えば、特定の場所に行くとか……」
「そりゃあな」と佐伯は言う。
「その神様専用の通り道(ミチ)と、神様が降りてくるための特別な場所(ニワ)が必要なんだとよ」
「特別な……場……」
凪がその言葉を反芻していると、彼のPCが静かにアラートを鳴らした。
消えた二人の学者のゲーム内チャットログの解析が完了したのだ。そこには、物理学の専門用語をゲーム内の魔法の言葉に置き換え、極秘の共同研究を行っていた痕跡が残されていた。
そして、その研究を指導していたのが、正体不明のプレイヤー賢者ヘルメスだった。
その夜の捜査会議。まず凪が報告した。
「…二人はゲーム内で『賢者ヘルメス』と名乗る人物と接触し、研究を進めていました。彼との対話こそが鍵です」
刑事たちが半信半疑の顔でざわめく中、一ノ瀬が冷ややかにそれを遮る。
「――天野巡査部長、その『賢者』とやらの正体が判明したぞ」
彼は、凪ではなく、会議室全体に言い放った。
「我々が追っていた国際テロ組織のコードネーム……それこそがヘルメスだ! 『賢者』だと? 笑わせるな。その正体は、国家システムすら弄ぶサイバーテロリストだ!」
会議室は凍りついた。
凪が「対話すべき賢者」と見る存在を、一ノ瀬は「逮捕すべきテロリスト」だと断じた。
二つの捜査の亀裂は、もはや決定的だった。
凪は、再びゲームにログインし、『ヘルメス』との対話を試みた。
Nagi: 『交換(スワップ)』とは、別の奏者が楽譜を引き継ぐことですか? それとも、全く別の曲を、同じ楽器で奏で始めることですか?
Hermes: どちらも違う。奏者も、楽器も、曲も、すべては『響き』そのものに過ぎない。そして、宇宙は完璧な調和(ハーモニー)を求める。一つの音が強すぎる時、調和を保つため、別の場所で必ず対となる『沈黙』が生まれる。……君たちが今、聞こうとしている『響き』の源は、最も深い『沈黙』の中にある。
「『響き』と『沈黙』の調和……」
凪は頭を抱えた。「何かの物理法則の比喩のはずだが……」
その姿を見ていた佐伯が、何気なく口を開いた。
「お前の言う『スワップ』とやらも、どこでも起きるもんじゃないんだろ? 何か特別な、**“儀式”のための『場』**が必要なんじゃないのか?」
その言葉を聞いた瞬間、凪の頭の中で全てが繋がった。
「『場』……!? そうか! 量子トンネル効果の発生確率は、通常はゼロに近い。だが、もし特定の条件下で時空が歪む特異点(フィールド)が存在するとしたら?」
ヘルメスの言葉が、意味を持つ。
「ヘルメスの言う『最も深い沈黙』とは、比喩じゃない! 外部からの観測が完全に遮断され、量子的な揺らぎだけが存在を許される、物理的な聖域のことだ! 佐伯さん、ありがとう! あなたのおかげで、ヘルメスの言葉の意味が解けた!」
まさに、その時だった。
捜査本部の扉が勢いよく開き、一ノ瀬が乗り込んできた。彼の顔は勝利の確信に満ちていた。
「突き止めたぞ! 『ヘルメス』の物理サーバーの拠点を特定した! 場所は神奈川の地下にある、閉鎖された旧国立・高エネルギー物理学研究所だ! 宇宙線を遮断するために作られた、まさに『沈黙』した要塞だ!」
その言葉を聞いた瞬間、凪の脳内でヘルメスの言葉が稲妻のようにフラッシュバックする。
――最も深い『沈黙』の中に…
モニターに、ヘリや装甲車を連ねて研究所へ急行する部隊の映像が映し出される。その轟音と隊員たちの怒号が、凪にはこう聞こえた。
――一つの音が強すぎる時…
凪は、顔から血の気を失った。
一ノ瀬の突入は、犯人を追い詰める行為ではない。
『ヘルメス』が予言した、次の『観測者交換』を誘発させるための、最後の儀式だった。
凪は、叫んだ。
「やめろ、一ノ瀬さん! それは罠だ! あんたたちが引き起こすその強大なエネルギーが、対極にある『沈黙』を、つまり消失(スワップ)を強制的に呼び起こすんだ!」
絶叫が、会議室に響く。
「あんた自身が、次の『扉』を開けることになる!」
だが、その声は届かない。
モニターの向こうで、一ノ瀬の部隊が研究所の分厚い防爆扉に爆薬を設置していた。
運命のカウントダウンが、今、始まる。
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