第2話『正論の壁とファンタジーの鍵』

立川署の一室に設置された合同捜査本部。

本庁から乗り込んできた刑事たちの張り詰めた空気が、壁と床に染み付いていた。


その中心に立つ一人の男の存在が、室内の酸素をさらに薄くしている。


「――以上が、本件の捜査方針である」


ホワイトボードの前に立つ男、一ノ瀬 黎(いちのせ れい)は、澱みない口調で締めくくった。

警視庁捜査一課管理官。階級は警視。三十代後半にしてその地位に立つ、キャリア組の典型。東大法学部を首席で卒業後、警察庁に入庁したエリート中のエリートだ。


彼の言葉は、判例とデータに裏打ちされた、反論の余地なきの塊だった。


「望月聡教授の持つ世界的価値のある情報を狙った、①海外諜報機関による拉致。もしくは、②利権を狙う企業スパイによる誘拐。捜査はこの二つの線に絞る」


一ノ瀬の冷徹な視線が、室内をゆっくりと見渡す。


「諸君には、教授の金の流れ、通話履歴、交友関係を徹底的に洗ってもらう。いいか、基本的なことをやれ。基本的なことを!」


その視線に射竦められたように、誰もが息を呑む。

その静寂を破り、天野凪が静かに手を挙げた。


「管理官。一つ、よろしいでしょうか」


「なんだ、天野巡査部長」


「望月教授が自らの理論、『観測者交換仮説』を証明するために、自発的に消失した可能性は……」


凪の言葉を遮り、一ノ瀬は温度のない声で言い放った。


「君の優秀な頭脳は、非科学的な憶測を垂れ流すためにあるのではない。そのような与太話は、知的怠慢であり、国家の威信がかかったこの捜査へのだ」


一ノ瀬の言葉は、氷のように鋭く突き刺さる。


「いいか。物理学の最先端理論も、君が好きなミステリー小説のトリックも、等しくこの現場では『捜査のノイズ』でしかない。君は黙って私の指示に従え」


一ノ瀬は佐伯と凪を一瞥し、まるでゴミでも見るかのような目で続けた。


「佐伯部長と天野巡査部長には、研究所周辺のゴミ箱の再調査と、過去一年間の望月教授の学会出席時の交通費精算書の再チェックを命じる。アリバイ固めのための雑用だ。文句はないな」


それは、意図的に捜査の主流から外す、という明確な意思表示だった。


***


捜査は、一ノ瀬が率いる「本流」と、佐伯・凪の「支流」の二つに分かれて進んだ。


捜査本部は、一ノ瀬の指揮のもと活気づいていた。

金の流れを追っていたチームが、数日後、有力な情報を掴む。望月教授が失踪直前、海外のペーパーカンパニーを経由して、多額の金を送金していた事実が判明したのだ。

送金先は、望月教授と敵対関係にあった、とある国の物理学者だった。


「情報の見返りとして金を受け取るはずが、裏切られて拉致されたのだろう」


一ノ瀬の断定に、本部は一気に事件解決へと近づいたかのように見えた。


一方、佐伯と凪は、署の資料室で膨大な書類の山に埋もれていた。


「ちくしょう、エリート様は快適な部屋でコーヒー飲みながら指示か。俺たちゃ肉体労働だな」


ぼやく佐伯をよそに、凪は驚異的な集中力で資料をめくっていた。

そして、彼はついにを見つけ出す。


望月教授のプライベートなクラウドストレージ。その奥深くに、教授自身が書いた未発表の「ファンタジー小説」のデータが残されていたのだ。


その小説のタイトルは、『蒼穹のトラベラー』。


佐伯は、その文字列を見て愕然とした。

(このタイトル……息子が読んでいたライトノベルと、全く同じじゃないか……!)


凪がさらにデータを解析すると、その顔が興奮に紅潮していく。


「佐伯さん、これ……! この小説の主人公が『転生』する際の描写が、『観測者交換仮説』の理論と不気味なほど一致しています! 教授は、自らの理論を物語の形でシミュレーションしていたんですよ……!」


「……伝えたかったのかもしれないな」


佐伯は、思わず呟いていた。


「自分の研究の面白さを、ただの数式じゃなく、物語として……誰かに」


「それだけじゃない! 見てください、佐伯さん!」


凪は、研究室のホワイトボードに書かれていた数式の写真をモニターに映し出す。


「この数式、あと一行で完成するの状態だったんです。そして、この小説に出てくる魔法の詠唱……この一節が、数式の欠けていた最後のピースに、ぴったりと当てはまる!」


小説は、単なる状況証拠ではなかった。

望月聡が遺した、最後の「論文」だったのだ。


***


その夜の捜査会議。

一ノ瀬は「敵対学者への送金」という「決定的物証」を、意気揚々と発表していた。


「――望月教授を拉致した犯人が、海外へ逃亡した可能性が極めて高い。直ちに国際刑事警察機構(ICPO)を通じて身柄の確保を要請する!」


捜査本部を完全に掌握した彼の宣言を、凪の声が打ち破った。


「管理官! 望月教授が残した創作小説に、事件の鍵があります!」


凪は、印刷した小説の一節と数式の写真を並べて、一ノ瀬の前に突きつける。


「佐伯さんも見ましたよね! この小説は、ただのファンタジーじゃない。教授が本気で“異世界行き”をシミュレーションしていた、動かぬ証拠なんです!」


会議室が凍りつく。

一ノ瀬の顔が、みるみるうちに怒りで歪んだ。


「貴様ら、まだそんなファンタジーごっこをしていたのか! いい加減にしろッ!」


一ノ瀬が「お前たちは明日から捜査を外れろ」と通告しようとした、まさにその瞬間だった。


一人の捜査員が、血相を変えて会議室に飛び込んでくる。


「か、管理官! たった今、ICPO経由で緊急の国際連絡が! 例の敵対学者ですが、彼の国の治安当局からも、行方不明者として国際手配が出されました!」


一ノ瀬は鼻で笑う。「やはり黒(犯人)か。我々の捜査網が迫っていると知り、高飛びしたな。最後の居場所はどこだ? すぐに追え!」


捜査員は、困惑しきった顔で報告書を握りしめていた。


「それが……彼の行方も、現在まったくの不明です。彼もまた……」


捜査員はゴクリと唾を飲む。


んです」


「どういうことだ?」


いぶかしむ一ノ瀬に、捜査員は信じられない、といった様子で続ける。


「彼の研究室も、望月教授のケースと同様、完全な密室でした。ですが、それ以上に奇妙な点が……彼の最後のオンライン活動記録なんですが……」


「……なんだ?」


「彼がログインしていたオンラインゲームのサーバーログによると、その発信元の座標が、地球上のどの地点とも一致しないんです。ログデータは意味不明の文字列に文字化けしており……まるで、この世に存在しない場所からアクセスされたかのようで……現地の技術者は、この現象を……」


捜査員は、震える声でその言葉を口にした。


と……」


会議室は、水を打ったように静まり返った。


一ノ瀬の「現実的」な犯人が、同じ「非現実的」な状況で消えた。


その絶対的な事実に、激昂していた彼の表情からスッと色が抜け落ちる。

完璧に構築された論理の世界が、音を立てて崩れ始めた。


彼は、誰にも聞こえないような声で、ただ一言、呟いた。


「……ありえん」

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