なぜ異世界転生は起きるのか?

星笛霧カ

第1話『消えた物理学者』

立川署の薄暗い刑事課。


デスクで冷めきったコーヒーをすすりながら、佐伯莞爾(さえき かんじ)は分厚いファイルに目を通していた。

蛍光灯の光が、その眉間に刻まれた深い皺を一層色濃く見せる。


「また一人、増えたか……」


――警察庁発表、令和五年、行方不明者届出受理数、九万百四十四人。


「この国のどこかで、毎日二百五十人近くが消えてる計算だ」


佐伯は乾いた声で呟く。


「そのうちの何人が、俺の知らないとやらに行ってるんだろうな……」


そんな馬鹿げた妄想が頭をよぎるのは、この春、大学進学と同時に一人暮らしを始めた息子の部屋に無断で立ち入ったせいだ。

置きっぱなしになっていたライトノベル。表紙の派手なイラストに眉をひそめ、手に取ってしまったのが運の尽きだった。


トラックに轢かれたらチートスキル持ちの貴族に転生?

スライムになって魔王を目指す?


馬鹿馬鹿しい、とページをめくる手が、いつの間にか止まらなくなっていた。

妻との別居生活が始まって久しい。五十代の乾いた心を慰めるのがファンタジー小説とは、我ながら情けない話だ。


佐伯が自嘲気味にファイルを閉じようとした、その時。

デスクの電話が、けたたましく鳴り響いた。


***


「人間が煙みたいに消えるなんてこと、あるわけないだろ!」


パトカーの助手席で、佐伯は吐き捨てるように言った。

しかし、長年の刑事としての勘が、これがただ事ではないと警鐘を鳴らしていた。


「ただの人間じゃないですよ、佐伯さん。消えたのはです。意味深で面白いじゃないですか」


運転席でハンドルを握る相棒、天野凪(あまの なぎ)が、楽しそうに唇の端を上げる。


「馬鹿野郎、事件を面白がる刑事があるか! しかも、お前の知り合いなんだろ?」


「はい。望月教授は、僕が尊敬する物理学者の一人です」


「尊敬する教授が消えて喜んでるのは、世界広しといえどもお前ぐらいのもんだ」


「えへへ」


「褒めてねえよ!」


凪にここまで強くモノを言えるのは、署内で佐伯くらいのものだった。

国家公務員試験をトップクラスでパスしたキャリア組。それなのに「家から近いから」という訳のわからない理由で所轄にいるこの男を、他の署員は『天才くん』と呼んで一歩距離を置いている。

その背後にある警察官僚の家系という血筋も、周囲の遠慮を加速させていた。


だが凪は、そんな特別扱いをせず、自分を対等に扱ってくれる佐伯にだけは、大型犬のように懐いていた。


現場は、東京都立川にそびえ立つ国立先端科学研究所。

国から多額の補助金を受け、国内の各分野のエキスパートが集い、日夜研究に明け暮れるだ。


その一室で、世紀の発見に関する記者会見を間近に控えていた天才物理学者、望月聡(もちづき さとし)が、煙のように消えた。


「――荒らされた形跡は、なし」


佐伯は、何もない、あまりにも整然としすぎた研究室を見渡した。

物がなさすぎる。生活感というものが、まるでない。

ただ、壁一面のホワイトボードにびっしりと書き込まれた難解な数式だけが、つい先ほどまでここで知的な活動が行われていたことを示していた。まるで異世界の古代文字のようだ。


室内に窓はない。

出入り口は、カードロック式の頑丈な扉が一つ。


だが、その扉は内側から施錠されていた。


「マスターキーで開錠した、と。それまでの間、扉の前の廊下に設置された防犯カメラの映像に、望月教授以外の人物は一切映っていなかった。つまり……」


凪が、ミステリーオタクの血を騒がせるように言った。


ってことになりますね」


「……またラノベみたいな話か」


「ミステリー小説において、『犯人も被害者もいない密室』のパターンはいくつか考えられます。被害者自身が外部犯を装って失踪するケース、あるいは巧妙なトリックで密室状況を作り出した後、犯人が悠々と立ち去るケース…」


凪の説明を聞き流しながら、佐伯はひとつの考えに囚われていた。

(犯人も被害者もいない……か。理由もトリックもなく、ただ世界を移動する。……まさかな)


「天野」


佐伯は、自分でも突飛なことを口走っている自覚はあった。


「そもそも、役割としての犯人も被害者もいなかった、としたらどうだ。いたのは教授だけで、その教授がただ消えた。消えることで……記者会見で発表するはずだった何かを、証明したというのは?」


意外にも、凪はその仮説に目を輝かせて食いついてきた。


「佐伯さん、さすがです! 鋭いですよ! 望月教授が、ご自身の研究内容が正しいことを証明するために、自分自身を“使って”消えた。その可能性は、大いにあり得ます!」


「褒めたってなにも出ねえぞ。で、その教授サマは、そんなSFみたいな研究をしていたのか?」


「望月教授が研究していたのはというものです。これは、最先端の量子物理学における『多世界解釈』と『量子もつれ』を組み合わせ、さらに『人間の意識』を物理現象として組み込んだ、極めて野心的な理論なんですよ」


「……さっぱり分からん。小学生にも分かるように説明しろ」


佐伯の言葉を待っていたかのように、凪は生き生きと話し始めた。


「佐伯さん、テレビゲームで例えましょうか」


「ああ?」


「僕らが何かを選ぶたび、例えば『はい』か『いいえ』を選ぶたびに、選ばなかった方のデータもちゃんとセーブされて、別のゲーム機で物語が自動的に続いている。これが『多世界解釈』の簡単なイメージです」


「……パラレルワールド、ってことか。ラノベで読んだぞ」


「ご名答。そして、なぜかその別のゲーム機のコントローラーと、僕らのコントローラーがみたいなもので繋がっている。これが『量子もつれ』。片方で右を押すと、もう片方では必ず左が押される、みたいな不思議な関係です」


「……で?」


「望月教授の研究は、その別々のゲーム機でプレイしているを、意図的に入れ替える方法を見つけたんじゃないか、ということです。テレビのチャンネルを変えるように、自分の意識を『はい』を選んだ世界の自分から、『いいえ』を選んだ世界の自分に切り替える……。これが僕の考える『観測者交換(オブザーバー・スワップ)』です」


凪は、そこで一度言葉を切った。


「教授は自らの理論を証明するため、チャンネルを切り替えたんですよ。――別の世界にね」


「……自分でチャンネルを変えて、別の番組(世界)に行った、ってことか」


佐伯が呆然と呟いた、その時だった。


研究室の扉が、ノックもなしに勢いよく開け放たれた。

見慣れないスーツ姿の男たちが数人、なだれ込んでくる。その鋭い視線は、明らかに現場の人間のものではなかった。


「警視庁捜査一課だ。所轄の皆さん、ご苦労様。ここからは我々が引き継ぐ」


男の一人が、威圧的に言い放った。


「……時間切れか。本庁様のご到着だな」


佐伯は小さく舌打ちした。


後に、佐伯莞爾はこの時のことを幾度となく振り返ることになる。

もう少しだけ本庁の到着が遅ければ。

あの時、天野の解説を最後まで詳しく聞いていれば。


そして、その言葉が意味するを理解していれば、事件はもっと早く解決できたのかもしれない、と。

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