第10話 銀の記録と、封印の過去

朝になっても、みきの不安は消えなかった。交番の狭い仮眠室に横たわったまま、一睡もできなかった。

扉の外で番をしていた清が、湯気の立つ味噌汁を手に入ってきた。


「昨夜は無事だったか?」


「はい……でも、まだ屋敷に戻るのが怖いです」


清は頷き、机に湯飲みを置いた。


「お前は、戻らんでもいい。――銀の家に行こう。あいつは、儀式の始まりから、封印の方法まで……私よりずっと知ってる」


二人は、山を少し下った旧道沿いの一軒家へ向かった。そこは元は村役場だった建物を改装したものだという。玄関には“銀考古資料室”と木の札が掛けられていた。


「兄貴か。朝っぱらから……珍しいな」


出迎えたのは、みきより少し背が低く、小柄な老人。白髪を後ろで束ね、縁の太い眼鏡をかけていた。年季の入った学者のような雰囲気。銀だった。


「佐原みきさん、ね。牧田の屋敷にいたのなら……あれを見たな?」


「はい……赤い服の老婆……肌が焼けてて、歯を……ギリギリ……」


銀はうなずくと、部屋の奥から数冊の古びたノートを取り出した。


「これは、明治時代の民俗調査の記録。村の“奇病”について書かれている。原因不明の昏睡、発熱、人格の崩壊……それが始まる直前に、必ず“老婆の幻覚”を見たと書かれていた」


みきの背筋が凍った。


「それ……私の彼氏、誠司も、同じ症状です」


銀の手が止まった。

「……それはまずい」


清が低くつぶやいた。


「ゆらゆら様は、今までは“女性”にしか寄生しなかった。だが、もし誠司に何かあれば、それは“例外”だ。……あの存在が、何かを変えようとしている」


銀はさらに一冊、赤い表紙の帳面を開いた。


「こっちは昭和二十年の記録。戦時中、屋敷の地下で“ある女性”が行方不明になっている。彼女は、当時の牧田家当主の娘。名前は“ゆら”。」


「……“ゆら”……?」


「そうだ。“ゆらゆら様”の名は、本来“ゆら”という実在の女性の名前が由来だ。彼女は牧田の信仰を拒み、逃げようとして、地下の洞へ閉じ込められた。その後、誰にも看取られず……絶命したらしい」


銀は、一枚の鉛筆画を差し出した。

そこには、ぼんやりと顔が溶けたような若い女が、赤い布をまとって横たわる姿が描かれていた。


「この絵は“降臨の儀式”と呼ばれている。生贄となった女の体に“ゆら”の魂を呼び戻す。これがゆらゆら様の始まりだ」


みきは、唇を噛んだ。


「だったら……その儀式を止めれば……ゆらゆら様を、封じられるんですか?」


銀は黙ったまま首を振った。


「逆だ。儀式を止めると、“魂”がこの世に留まり続けてしまう。つまり、次の寄生先を探して、より強く、より獰猛になる」


「……じゃあ、どうすれば……」


清が言った。


「生贄ではなく、“成仏”させるしかない」


「そんな方法……」


「一度だけ、ある。ゆらが好きだった“ある童歌”がある。祭壇の前で、彼女の母親がそれを歌い、ゆらは涙を流して苦しみながらも、笑ったそうだ。……それが唯一の“人間らしさ”を取り戻した瞬間だった」


銀が古い録音テープを手に取った。


「この中に、その歌が入っている。ただし……これは未完成の断片だ」


みきは、録音テープを見つめながら、小さく息を吐いた。


彼女は、まだこの家の“真ん中”には触れていない気がした。

だが、確かに、そこに近づいている。


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