第9話 夜の追跡と駐在所の老人

屋敷の中に、確かな“気配”があった。誰かが見ている。そんな感覚が、みきの肌をひりつかせる。


――ゆらゆら様。


地下への扉に手をかけたときから、何かが目覚めていた気がする。夜の長い廊下、掛け軸の隙間、天井の梁。あらゆる影の中に“それ”は潜んでいる。そんな錯覚に、みきは囚われていた。


深夜、部屋の障子が音もなく開いた。


誰もいない。けれど確かに、畳を踏む音がする。ギリ…ギリ…と、歯ぎしりのような音とともに、空気がねじれていく。


みきは掛け布団を跳ねのけ、廊下へ駆け出した。薄暗い照明が彼女の足元を照らす。障子が一枚ずつ開いていく――何もしていないのに、まるで“何か”が道を示すかのように。


後ろを振り返った。


そこに、“それ”がいた。


白髪で瘦せ細った老婆。焼け爛れた肌に赤いワンピース。頭をゆらゆらと揺らしながら、こちらを見ていた。歯はギチギチと擦れ合い、目はただただ真っ黒だった。


声が出ない。みきは悲鳴を飲み込み、必死に階段を下りた。


玄関の戸を開けると、湿った夜風が頬を撫でた。庭を駆け抜け、門を越え、外灯の灯る道を全速力で走った。ゆらゆら様の気配は、まだ背後にあった。足音はない。けれど、それは追ってきていた。


「……っは、っは……っ!」


遠くにポツンと灯る建物の明かりが見えた。交番。田舎の旧道沿いにひっそりと建つ、木造の駐在所だった。


みきは玄関を叩いた。「誰か……誰か……お願い……!」


ギィ、と扉が開く。


「夜中にどうした? ずいぶん顔色が悪いな」


現れたのは、背の曲がった初老の警察官。眼鏡の奥の瞳は穏やかだが、どこかで“知っている”目だった。名札には「清(きよし)」と書かれていた。


「……お名前は?」


「佐原みきです……津山にある牧田家に……いま、ゆらゆら様に……!」


「……やっぱり、来たか」


清は大きく息をつくと、静かにドアを閉めた。


「ゆらゆら様のことを、誰かに話したらいけないって言われてるんだ。みんな、口を閉じる。でも、私は……違う。私と弟の銀は、あれがなんなのかを昔から調べている」


清は奥の棚から一冊の古びたファイルを取り出した。


「牧田の家系図、儀式の記録、失踪者の名簿、奇妙な病の発症例。すべてが繋がってる。あれは……土地に憑いた“なにか”だ。信仰と呪いの間にあるもの。おそらく、もう少しで……お前が“次”になる」


みきの手が震えた。


「……助けてください」


「もちろんだ。だが、急がねばならん。お前がここに来たことが、すでに牧田の屋敷に知られているかもしれん。ゆらゆら様に“選ばれた”者が逃げると……あれは、より強く追ってくる」


交番の外。風が凪ぎ、葉がひとつも揺れなかった。


清は机の引き出しから鍵束を取り出した。


「ひとまず、ここに泊まりなさい。私が見張る。明日、銀と連絡をとる。あいつなら、もっと深く知ってる」


みきは頷いた。


この夜を越えられれば――何かが変わる。

そう信じるしかなかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る