第6話 祟りの兆し(5月2日・深夜)


日付が変わる頃、牧田家に静かな不穏が忍び寄った。


「……お前、ついて来んなって言ったろがよ」


その夜、翔はまた家を抜け出していた。

岡山市街のネオン街――改造車のライトが地面を舐める。

彼は暴走族の連中とつるみ、コンビニの前でタバコをふかしていた。


そこへ、美香が駆けつける。

小さな体にコートを羽織り、息を切らしながら兄を見据えた。


「翔兄ちゃん、お願い、もうやめて。帰ろうよ、こんなこと……ひずみ様に知られたら――」


その言葉が終わる前に、平手ではない拳が飛んだ。

湿った乾いた音が、夜空に弾けた。


「……ちぃせえガキが……つべこべ言うなッ!!」


美香の身体が横に吹き飛び、アスファルトに頬から落ちる。

次の瞬間、赤黒い血が流れ始めた。

鼻梁がぐにゃりと曲がり、彼女は何も言えなくなった。


翔は一瞬固まり、次に照れ隠しのように笑って言った。

「なぁ、ちょっと強くやりすぎたか?」


だが誰も笑わなかった。

その場にいた連中すら、一歩引いた。

“なにかを越えた”と、全員が感じたのだ。


――その報せは、深夜二時すぎに誠司の耳に入った。


「……美香が、救急で運ばれた。鼻の骨が折れてる。兄貴に殴られて」


その一報だけで、彼の中で何かが燃えた。

玄関に出ていく誠司を、誰も止めなかった。

母・成美は泣きながら震えていたが、次朗が静かに肩を押さえた。


「誠司は――ちゃんと決めなきゃいけないんだ」


そう言ったその声の中に、“覚悟”のようなものがあった。


津山市街の川沿い。

翔たちは再びたむろしていた。

そこへ、誠司が歩いてきた。


何も言わずに、いきなり一人の男を殴り飛ばす。

つづけてもう一人、肘を砕くような角度で倒す。

彼の動きは冷静で、しかし異常なほど速かった。


「……おい、やめろ誠司ッ! なんでオレがやられなきゃ――!」


翔が叫んだ瞬間、誠司は彼の襟を掴み、壁に叩きつけた。

眼鏡越しの視線が、獣のように冷たかった。


「お前……一度でも家族を“守ろう”としたことあるか?」


返答を待たず、拳が振り下ろされた。

翔の口元から血が滴り、歯が砕けて転がる。


誠司の手の中には、ナイフがあった。

それを見て、翔の仲間たちは一歩も動けなくなっていた。

何かがもう“現実”を逸脱していたのだ。


――そのときだった。


背後から、冷たい気配が這い上がってきた。


風は吹いていない。音もない。

ただ、空気だけが異様に重く、粘りつく。


誠司が振り向いた瞬間、彼の背後に“それ”は立っていた。


髪の長い、瘦せこけた老婆。

赤いワンピース。

焼けただれた肌。

口元から漏れる、ギリ……ギリ……という歯ぎしりの音。

ゆらゆらと、ゆれている。

ただ、ゆれている。


見えたのはほんの一瞬。

けれどその刹那、誠司の身体が硬直し、目の焦点がぶれた。


彼はそのまま、崩れ落ちた。


意識を失い、地面に倒れた誠司の身体は痙攣していた。

彼のナイフがコトリと落ち、アスファルトを跳ねた。


翔が呆然と立ち尽くすなか、

仲間の一人が、ようやく絞り出すように言った。


「……今の、なんだった……?」


誰も答えなかった。

誰も、もう誠司の近くに寄ろうとはしなかった。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る