第2話 短歌erに与ふる書 その2

 紀貫之はカスだし、『古今集』はくだらん和歌集。

 紀貫之とか『古今集』が好きなやつの気がしれん、マジで。


 いや、俺も数年前まで『古今集』ラブだったから、気持ちはわかる。

 古今集にホレてるときって、「マジで短歌って優美、古今集マジ最高」って感じだよな。でも、冷めてから見てみると、「あんな意気地のない女に化かされとったんか……」ってなる。悔しいし腹立つ。


 そもそも『古今集』って最初のページから、いきなり「年末のうちに春が来たんだけど、これって去年、それとも今年?」って歌が出てくる(※1)。

 マジでどうでもいい短歌で横転。

 日本人と外国人のハーフを「日本人、それとも外国人?」って言ってるみたいな感じ。何の洒落にもなってない、つまらん短歌。

 これ以外の歌も目くそ鼻くそ、駄洒落か理屈っぽい歌ばっかり。


 強いて『古今集』を誉めるなら、つまらん短歌しかないとはいえ、『万葉集』以外でブームになった最初の作品集だってこと。まあ誰だって、最初のうちは「新しくてイイ!」って感じるよな。

 でも、これをパクるしか能のない奴は、マジで気がしれんわ。それも十年、二十年ならともかく、二百年とか三百年とかそのカスを舐めてるのは、マジでバカすぎてビビる。

 vol.ナントカまで出てるよね。全部、古今集のカスのカスのカスのカスってことやんけ。


 *


 紀貫之も同じ。歌っぽい歌は一つもない。

 昔とあるヤツに、「思ひかね妹がり行けば冬の夜の川風寒み千鳥なくなり」はどう? って言われた(※2)。

 これについては言葉返せんかった、うん。この歌だけはまあおもろいけど、他はひとつもない気がする。

「桜散る木の下風は寒からで空に知られぬ雪ぞ降りける」とか、駄洒落やん(※3)。

「人はいさ心も知らずふるさとは花ぞ昔の香ににほひける」は、ワードチョイスがウッスい(※4)。


 ただ、紀貫之はこれ系のパイオニアであって、昔の人の残りカスではない。

 古今集の歌って、めっちゃ世俗的で、万葉集とは全然比べ物にならないんだよ。ただ、それを平安時代の特徴と考えれば、昔と違うことをした結果がそれなんだから、まあ許せるって感じ。それをご本尊にしてカス部分を猿真似してる後世の奴らは、マジで笑える。


 *


『古今集』の後は『新古今集』がマシだとは思う。

『古今集』よりはいい歌が入ってるけど、手で数えられるぐらいかな。

 藤原定家ってのは、上手いか下手かマジでわかんなくて、新古今集で選んだ短歌を見てると「こいつわかってるかも?」って思うけど、自分の歌はロクなもんがない。


「駒とめて袖うちはらふ」

「見わたせば花も紅葉も」

 ここらへんがみんな好き、ってぐらいだろ(※5、6)。

 定家って傑作がないんだけど、技術力自体はあるから、なんでもある程度できちゃう。名前も売れてる。短歌の派閥を作って、その派閥がマジでカスになった。

 どの時代もどの芸術も、「格付け」みたいなんやっちゃったら、もはや進歩しないって。


 *


 香川景樹は古今集・紀貫之ファンだから言うまでもなく馬鹿(※7)。もちろん俗っぽい短歌が多い。

 ただ、あいつはいい歌もあるんだよ。自分が崇拝している貫之よりもいい歌が多い。

 景樹が貫之より偉かったと言っていいのかはわからん。景樹の時代に貫之の時代より進歩している点は絶対あるから、自然と景樹のほうがいい歌ができたってだけじゃね。

 景樹の歌ってマジで玉石混交なんよな。雅かつ俗、上手いのに下手。両極端な男で、作品にも出ちゃってる。

 で、あふれ出る意気込みでインフルエンサーになって、全国にシンパが死ぬほどいたってわけ。


 景樹を勉強するならいい部分だけ勉強しないと、マジで邪道に落ちていくだろ。それなのに、昨今の景樹派ってのは、景樹の俗な部分だけ勉強して、景樹よりも下手。

 外国の人のドレッドヘアに憧れて、自分の直毛の髪質を痛めつけちゃった、みたいなダサさだよね。

 ちょっと、目をかっぴらいて考えてみなよ。

 全時代全世界の文学を比較して考えろよ。くだらん短歌本ばっかり見ていたら目が覚めないよ。

 視野狭窄に陥りすぎ。隣の電車が前進してるんじゃねえよ、お前の電車が後退してるんだよ。

 じゃ。



===


※1

年のうちに春は来にけりひととせを去年こぞとやいはむ今年ことしとやいはむ (在原元方)

<訳>年内のうちに春が訪れた。この一年は、去年と呼ぶべきだろうか、今年と呼ぶべきだろうか。

 陰暦の新年(旧正月)は太陽暦に直すと1月から2月で大きくずれる。一方で、立春は2月3日、4日あたりと、太陽暦に依存してほぼ正確に決まっている。したがって、立春と旧正月が混在していた平安時代には、正月と春のどちらが先に来るかは年によってまちまちであった。それを面白く読んでみた、みたいな歌。確かにだいぶおもんない(個人の感想です)。


※2

思ひかね妹がり行けば冬の夜の川風寒み千鳥なくなり (紀貫之)

<訳>思いかねて君に会いに行く。冬の夜の川風が寒々しく、水鳥の鳴くのが聞こえる。 

 なお、作者は平安の歌人だが、「妹がり行けば」の部分は意識的な万葉調となっている。子規がこの歌だけを高く評価するのは、万葉回帰のメッセージと符合している。


※3

桜散る木の下風は寒からで空に知られぬ雪ぞ降りける (紀貫之)

<訳>桜が散るこの木の下は、風は寒くない。空は知らないが雪が降っている――それは、桜吹雪だ。

 桜が舞い散るのを雪に見立てて「空はこの雪を知らない」と感傷に浸る部分を、子規は「くだらん洒落だ」と貶している。



※4

人はいさ心も知らずふるさとは花ぞ昔の香ににほひける (紀貫之)

<訳>君はどうだろうね。人の心はわからないから。故郷では、梅の花だけが昔と同じ香りで咲くのだなあ。 

 百人一首にも収録されている代表歌。まえがきに記した通り、私も全然いい歌だと思わない(個人の感想です)。



※5 「駒とめて袖うちはらふ」

駒とめて袖うちはらふかげもなし佐野のわたりの雪の夕暮 (藤原定家)

<訳>馬を止めて袖を叩きはらうような人影も見えない、佐渡の雪の夕暮れどき。

「わたり」は渡し場とも解釈できるし、「あたり」とも読めるらしい。ここでは「あたり」にしてみた。間違ってたらすみません。

 なお、この歌は「その4」でも再言及し、「こういうのは理屈っぽいとは思わない」と、必ずしも否定的でない意見を述べている。



※6 「見渡せば花も紅葉も」

見渡せば花も紅葉もなかりけり浦の苫屋の秋の夕暮 (藤原定家)

<訳>見渡すと花も紅葉もない。海辺の藁ぶき小屋の秋の夕暮れどき。


※7 香川景樹

 江戸時代後期の大歌人。前回出てきた賀茂真淵とかの敵で、古今集が大好き。桂園派と呼ばれる一大流派を形成した。「調しらべ」を重視する歌論で有名らしい。

 景樹本人はゆうて写生的な歌も少なくないし、確かに貫之ほど理屈っぽくもないと思う(個人の感想です)。衰退済の門派なのでネット検索に引っかからないがちなのだが、「桂園派」「御歌所派」あたりでサーフィンすると、なんとなく古今集味が読み取れる。

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