第3話 短歌erに与ふる書 その3

 よっしゃ続きだ。


 短歌erほどバカでのんきなヤツっていないよね。

 短歌erの主張を聞いてると、「短歌ほどいいものはない」って言ってずっとイキってる。でもあいつら、短歌以外何にも知らないの。だから「短歌が一番イイ」ってうぬぼれてるだけなんだよ。

 短歌に一番近い俳句すら、なんもわかってない。十七音なら川柳も俳句も同じだと思ってるってぐらいののんきっぷり。

 当然漢詩の研究もしないし、西洋には詩があるかないかすら知らない不勉強っぷり。

 ましてや小説や演劇は短歌と同じで文学だなんて聞いたら、ビックリしちゃうぞ、あいつら。


 こう言うと、誹謗中傷だって怒る奴もいるかもしれんけど、事実だからな。

 俺の言ってることが間違ってると思うなら、短歌erで俳句がわかるやつ挙げてみ?(※1)

 俺は短歌erに恨みがあるわけじゃないから。こういう誹謗中傷っぽいことを言わないといけない気持ちも察して。


 *


 短歌が一番いいなんてそもそも根拠なくて、当然一番いいわけないんだよ。

 俳句には俳句の長所があり、漢詩には漢詩の長所があり、西洋の詩には西洋の詩の長所があり、演劇は演劇で長所がある。その長所には、短歌じゃ手が届かないわけ。


 それに、根拠ないのを置いといたとしても、いったい短歌erって、短歌が一番良いと思ってどうするつもりなの? 

 短歌が一番いいってんなら、なんでもかんでも上手でも下手でも31音並べさえしたら天下第一になるのかよ。上手い俳句も漢詩も洋詩も超えるのかよ。どういう了見だよ。

 一番下手な歌が一番いい俳句漢詩より上なら、俳句漢詩で骨折り損するバカはいないだろうが。

 もし俳句や漢詩で短歌より神な作品があって、短歌で俳句漢詩よりカスな作品があったら、短歌だけが一番いいってわけじゃないだろ。

 短歌er、浅すぎ。ほとほとあきれるわ。


 *


「俳句には調しらべがなくて短歌には調がある、だから短歌のほうが上」

 これ、言うヤツがいる。一人とかじゃない。短歌erには、この説を唱える奴が多い気がする。

 短歌er、マジで調とは何かわかってない。

 調にはなだらかなのもあるし、迫ってくるようなのもあるんだよ。

 平和でのどかな様子を歌うなら、なだらかで長い調を用いるべきだ。一方で、悲しみや怒りで抒情が切迫してるとき、あるいは自然でも人間でもいいけど、風景が激しく変わっているとき。こういうときは言うまでもなく、切迫して短い調を用いた方がいい。

 なのに短歌erってのは、調は全部なだらかだと思ってるっぽいよな。

 こういう間違いも結局、昔の短歌がなだらかな調ばっかり使ってきたせいだよ。俳句も漢詩も見ずに歌集ばっかり見てる短歌erには、こう思えるのもしょうがないとは思うけどさ。

 マジで困った奴らだ。なだらかな調が短歌の長所なら、切迫した調は俳句の長所だろ。それぐらいわからんのかな。


 しかし、「切迫して強い調」なんてエモみは、短歌erには全然わからんだろうね。

 賀茂真淵は雄々しく強い歌が好きだったくせに、実際にその歌を見ると意外に少なくて、源実朝みたいなのは真淵には一首もない。


信濃なるすがの荒野を飛ぶ鷲のつばさもたわに吹くあらしかな (※2)


 って歌は、真淵の中では力強いほうだけど、意味ばっかり強くて調は弱っちい感じ。

 実朝にこのモチーフを読ませたらあんな作り方しないよ。


もののふの矢並つくろふ籠手の上に霰たばしる那須の篠原 (※3)


 とかさ、鷲を吹き飛ばすほどの荒々しいモチーフでもないのに、調の力強さでは天下一、この歌を音読するだけで霰の音が聞こえてくるような気分になるだろ。


 賀茂真淵ですらそうなんで、真淵以下は言うまでもない。

 ああいう短歌erには、蕪村派の句集とか盛唐の詩集とかを読ませたい(※4)。けど、短歌erってイキり倒してるから自分の流派以外の本を読まないし、勧めるだけ野暮ってもんだろうな。


 *


 ご存じのとおり、俺は短歌erに部外者とか素人とか言われてる。短歌の勉強はそんなにしてないし、格とか文法とか全然わからん。でも、信じてるモノはあるってんだよ。

 それについて、プロ短歌erのボケっぷりをボコしてるってわけ。

 こんな悪口ばっか書いてたら、俺のことを野次馬かなんかだと思うかもしれないけど……。俺が野次馬かどうかは、お前ら、わかるだろ? 

 反対のヤツいる? いたらいつでも俺んちに来いよ、三日三晩でも議論してやるから。

 アツいハートだけは、普通の短歌erには負けんぞ? 

 ちょっとアツくなってきたから失礼なこと書いたかもな、すまんな。

 じゃ。


===


※1 短歌erで俳句がわかるやつ挙げてみ?

 子規は本稿の発表時点で、既に俳句の革新運動をおおむね完成させ、第一人者として名を上げていた。

 高浜虚子や河東碧梧桐など門下生も多く、自身は結核の神経障害で半身不随になっていた時代である。「俳句をブチ変えた野郎が、死にぎわになって短歌界に攻め込んできた」という印象だったと考えられる。

 ちなみに子規の没後、虚子と碧梧桐のせいで俳句は滅茶苦茶になる。2人の死闘の結果、俳句の575調重視は決定的となり、破調に寛容な現代短歌とは一線を画していく(個人の感想です)。すべて子規と結核のせい……かもしれない(個人の感想です)。


※2 


信濃なるすがの荒野を飛ぶ鷲のつばさもたわに吹くあらしかな (賀茂真淵)


<訳>信濃の国の須賀の荒野には、飛ぶ鷲の翼もたわむほどに嵐が吹きすさんでいる。


※3 「もののふの矢なみつくろふ」

 源実朝作。この歌は「その8」で絶賛されるので省略。


※4 蕪村

 与謝蕪村。今でこそ有名な俳人だが、この時代では歴史に埋もれていたらしい。

 子規はこの2年前に『俳人蕪村』と題する熱烈な蕪村アゲの評論を記している。その悔しさ滲む文章からも、当時はそこまで評価が高くなかったことが伺える。

https://www.aozora.gr.jp/cards/000305/files/47985_41579.html

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