キングウィリアム・アイランド

栗丸

序章 心理彷徨

第0話 絶望

 我々の冒険は失敗に終わった。


 フランクリン船長が亡くなってからもう半年は経っただろうか。

 指揮官のいなくなった探検隊は、いとも簡単に内部崩壊を誘発する。私はこの探検で、その事を嫌というほど思い知った。

 それも無理もないことなのかもしれない。人の文明から遠く離れたこの極寒の極地で我々は遭難してしまったのだ。助かる希望が絶望へと変わった瞬間、人間という生き物は自己保身で愚かにもなれる。


 現に今私の目の前には、とうとう人道を踏み外した兵士が背中を丸めて冷たい氷塊の上に膝をついている。

 その兵士の目の前には、行軍中に病で亡くなってしまったある軍医師が横たわっている。亡くなった軍医師と兵士は、冒険の中で知り合い、友人となった関係だ。

 これを赤の他人が見れば、それは人道を踏み外すどころか同情を誘う状況であろう。しかしそれは、一方向から見た単なる“見間違い”なのだ。


「や、やめるんだ! そんなこと、間違っているぞ!」

 さっきから何度も何度も、永遠にその死体を眺める兵士と、必死の想いで何かを止めようとする海軍の将校がいる。

 将校はその兵士に歩み寄り、何か慰める言葉をかけるでもなく、強く肩を掴んだ。

「だ、黙れ! これは……これはだぞ!」

 兵士は何か幻覚でも見ているのだろうか。確かにここは北極海を漂う氷塊の上、肉や木の実などの食料さえ無い場所なのだから、飢餓も当然だ。

「よく見るんだ! それは、本当に食べ物なの!?」

「うるさいッ……うるさい!」

 兵士は理性を失い、ただ気狂いの病人と化していた。

「……もう、手遅れなのか」

 将校は兵士の意地の張り用に観念したようで、振り払われた片手を、腰に帯びる軍刀へと伸ばした。そして、将校は鞘から軍刀……サーベルを引き抜き、二度、兵士の頸を斬り付けて殺した。

 首を落とされた死体の右手には、白い湯気の立ち込める骨付き肉が握られていた。

 さっき私が述べたように、この場所に動物はそうそういない。ましてや、この寒い時に湯気が出るほど新鮮であるということは、それがどこから捌かれたものか、それはもう自明であろう。

 そう、その兵士は死んでしまった友人を弔っていたのでも、そして失意のあまりに虚脱していたのでもなかった。

 不安と飢餓。これに惑わされた探検家達が、今までに何人もいた。あの兵士の痩せほそった腕は、私の握力でも簡単にへし折れてしまいそうだった。

 ふと視線をその死体から戻すと、共に行軍していた仲間達はたった今、一人の仲間が殺されたことを、さも当たり前のことかのように表情を無にしていた。なんて薄情な奴らなんだ。

 あぁいや、それは、私も同じことだったな……。

「これでもう、何人目なのだろうか……いや、人の死を数えてはいけないか」

 私は呟く。

 私達がこんな状況へと陥ったのは、数々の不運が重なったからだ。

 元々、秘境の地への探検は、それ相応の準備がなされていた。旅には、三年分の缶詰食料や飲水用の蒸留装置……加えて、娯楽用に何冊もの書物を積んでいた。

 どうしてそれで探検は失敗したのか、結末を知れば、なに、簡単なことだよ。

 まず最初の問題は、狭い航路を進む途中で、氷塊によって船を囲まれてしまったことだ。こんな事態が起きないよう、夏を見計らって出港したはずだが、思い通りではなかったらしい。

 雪解けの春を待つため一年そこで費やす。

 そして第二の問題。これが発端だった。

 ある日、複数人の船員が体調不良を訴えた。症状は風邪みたいな軽いものではなく、頭痛に腹痛や嘔吐、めまいなどが見られた。それから数時間した後、不調を訴えた船員達は心停止によって死亡した。

 医師が言うには、それは鉛中毒による症状らしい。

 さて、ここで気づいた人もいることだろう。

 鉛が使われ、かつ人が容易に口につけるもの。それは鉛製の缶詰と、鉛が少し使われている蒸留器だったのだ。

 鉛缶詰を疑うのに余地はないだろう。しかし、蒸留器の方は不明だ。鉛を摂取したとしても少量だし、害があるのなら使わないという方針が船内で定まった。

 それによって、三年分あった大量の備蓄食料は、一瞬にしてゴミの山となったわけだ。その後の我々がどんな道を辿ったか、わざわざ長く語る必要もないだろう。極度の飢餓状態に陥った者は、例外なく我を忘れ、彼のようにグールの悪魔が取り憑く。

 そんな人間が現れた時から、健常者の手によって介錯をしようと既に話し合って決めていた。事実、私ももう何度この惨憺な光景を目にしてきたことか。

「先を急ごう、霧も濃くなってきた。次アイツに追いつかれれば、もう助からないだろう」

 血で塗れたサーベルの刀身を布で拭き取っている将校が言うように、我々は今までとある“生物”から逃げていた。

 それは何か。

 白熊? いや確かにそれも脅威だが違う。

 先ほど私は極度の飢餓状態をと表現したが、それは事実だ。

 どうやらその悪魔は、簡単に自らの姿を公に晒したりしないらしい。人間では理解できないような言葉と発音で、我々に何かを伝えたいのか囁いてくるのだ。咄嗟に振り返ろうとも、そこには何も存在しない。

 そんな不可解な状況は決まって霧が濃くなる。猛吹雪が暴風雪へと凶暴化し、視界が真っ白になる。

 幸い、今のように霧が少し濃くなるだけならあの悪魔は現れない。だから、逃げるのなら今のうちなのだ。

「カナダのバック川まで、後少しだ。もう陸地は見えているのに、何故か辿り着ける気がしない。我々は一体、どのくらい歩いた?」

 今思えば、ヨーロッパとアジアとを結ぶ夢のような北西航路開拓の冒険は、船が氷に閉ざされ船長が死んでしまった時から、もう失敗していたのかもしれない。

 鉛中毒事件が起きる前、実は船の保管庫から燃料用の石炭が全て消えた。明らかに自然なことではないから、一時は船内全体が疑心暗鬼になっていた。この中に裏切り者がいると。

 船が氷塊の影響で使い物にならなくなった後、放棄して島へ上陸したのだが、体に蛆虫が湧いてきた時はもう死んでしまうんじゃないかと思った。

 だが私はあらゆる苦難を乗り越え、今こうして、前を進んでいる。

 私は、必ずイギリスへ帰ってみせる。あそこには、私の帰りを待つ家族がいるのだから。

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