Day.16『にわか雨』
「ほのちゃん、こっちじゃ」
蒼寿郎に連れてこられた火乃香に向かって手招いた。
走ってきたにもかかわらず、火乃香は息ひとつ切らしていない。
それは彼女が妖狐だからだ。人を化かす狐は逃げ足が速い。悪戯しては逃げるその足は、ともすれば蒼寿郎よりも速いかもしれない。
「これに心当たりは?」
地面を指すと、火乃香は少し顔色を青ざめた。良くないものを目にしたときの反応だ。
火乃香はそっと近づいて、文様に触れるか触れないかのところまで手を伸ばす。と、ひゅっとすぐさま手を引っ込めた。
少し考えるように目を伏せて、人差し指をくるりと動かす。ぽっと爪の先に灯った青白い狐火を操って、文様の上にとんっと落とした。
パチッ、
軽い音を立てて狐火が弾け、文様から細い火花が散った。微かに漂う煙に、火乃香は袖口で鼻を覆った。
「この気配……やっぱり鬼の……」
「鬼?」
鬼と一口に言うが、いろんな奴がいる。
小豆洗いと同じく人の文化を学び、共存を望む者もいれば、もちろん人間を嫌う者もいる。葵が住むメゾンワンダーには、引きこもりの度が過ぎて、自ら「封印されたい」と嘆く鬼だっている。
けれど、火乃香のこの反応は、そんな良いものじゃないのだろう。
「鬼ってなんだ。普通の鬼じゃねぇのか?」
「蒼寿郎、突っかかるな」
「けどっ」
それでも言い寄る蒼寿郎を手で押さえ、火乃香に再度問う。
「どうなんじゃ火乃香。鬼の気性によっては、この子らが危ない」
「……ここの鬼はね、妖怪や人間を食べるのよ」
一番厄介なやつだ、と思わず頭を抱えた。
「同じ妖怪を食べるのか?」
「そうよ。彼らは鬼の中でも特に凶暴で、同じ妖怪や人間を食べて己の力にするくらい、気性も荒いの」
「妖力の高いほのちゃんを狙って……」
これは、彼女を狙った罠ということか。
けれど火乃香は首を横に振った。
「いいえ、もしかしたら、狙われたのは火織かもしれません」
「なに?」
「今は火織の方が妖力が上なのよ。私の妖力は、火暖を産んだときに半分を分け与えてしまったから……」
そっと目を伏せてぽつりと「火暖はね、難産だったの」と零した。
「火暖は、生まれつき妖力が少なかったのもあって、いつ死んでしまうか分からなかったわ。だから、生まれるときに私の妖力を与えたの」
なるほど、と頷く。
火織を狙った罠に不備があったら。
そして、火織を狙ったこの陣に、間違って火暖が触るなり踏むなりして、引っかかってしまったとしたら。
(火暖の妖力が減っていっていることの辻褄が合う……)
そして、火乃香は気まずそうに唇を少し噛み、こうも教えてくれた。
「それと、ここの鬼はね、若い娘が特に好物なの」
人肉を好むやつは大抵同じ事を言う。こちらからしてみれば遠慮したいが、彼らにとって人間の味は特に美味いようだ。
(……確かに家畜も、若い雌の肉の方が柔らかくて美味いが……)
ちらりと隣を見ると、案の定、蒼寿郎の額に青筋が浮かんでいた。
「つまり、アオイも狙われるってことじゃねぇか」
声から怒気が滲み出ている。鋭い視線は火乃香に向けられていた。
「アオイになにかあったらタダじゃ済まさねぇ」
「やめんか蒼寿郎。火乃香に当たるな」
「けどよ!」
「今回の事態を起こしたのは鬼の方じゃ、火乃香たちではない。怒るのは当然だろうが、その矛先を履き違えるな」
ぴしゃっと言い放つと、蒼寿郎は口を噤んだ。恨めしそうに文様を睨み付け、むしゃくしゃを隠しきれずに前髪を掻き上げる。
「……これだから狐の里に行くなって言ったんだ」
なおもぐちぐち言う彼の尻を手で叩いて黙らせた。
「ここは、葵に協力してもらって浄化するとしよう」
葵に分け与えた力は、【水を操る力】ともう一つ【浄化の力】がある。毒素となるもの取り除き、回復させる力だ。
その時だった。
「火乃香様~ッ!!」
森の中から、叫ぶ声が聞こえた。
三十秒もしないうちに、草むらの中からぴょこんと白い狐……穂緩が姿を現した。
「火乃香様ッ、あぁ、小豆洗い様も……大変にございまする!」
「どうしたの穂緩」
穂緩の慌てぶりは尋常じゃなかった。主である火乃香の前なのに、立つことも忘れて声高に申し上げた。
「鬼が……鬼が入り込んでおります。ついに強行突破で、なにかを探しに来たようで……!」
にわか雨でも降るのだろうか。
黒い雲が、空に広がっていた。
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