Day.13『牙』
火織と琥珀とともに、葵が狐の里を楽しんでいるその一方。
狐の里から少し離れた森の中の小川に、蒼寿郎は着ていた。
名前もない小川とはいえ、九頭竜川の本流に流れ込むこともあって川幅や深さも思っているよりも大きい。
山から涼しい風が吹き、木の葉の隙間から夏の日差しが零れてきてキラキラと水面に反射している。けれど蒼寿郎の気分はまったく逆だった。
「なんでオレがアンタに付き合わなきゃなんねぇんだ」
「お主は荷物持ちじゃろう? ほれ、これも」
大量の小豆を研ぐ小豆洗いは、着ているワンピースの裾を無造作に結んで、膝下まで水の中に入っていた。
「ふぅ~、さすがにこの量は骨が折れるのぅ」
「まだ二回しか往復してねぇじゃねぇか」
「あーあ、蒼寿郎ちゃんにも手伝ってもらえたらよかったのにのぅ」
「アンタの仕事だろうが」
さっきからこんな会話しかしていない。
「おい」
「なんじゃ?」
「なんでアオイをあの狐に任せた?」
朝からずっと気にかかっていたのは、葵のことだ。今日は、あの火織とかいう白狐と一緒に出かけている。
「たまには別行動もいいじゃろう。いつでもどこでもお主がおったら、葵も気が休まらんからのぅ」
「なにかあったらどうするんだ」
「何かあったときのための火織じゃろう」
だから、それがいけ好かないんだろうが、と毒づく。自分の番に他の雄を近づけるとか、蒼寿郎からしたらあり得ない。
「まぁまぁ、怒らない怒らない」
蒼寿郎が怒っても、小豆洗いはどこ吹く風だ。そよ風にも感じていない。
「それに、葵にはここの町をしばし堪能してもらいたいのじゃよ」
「狐の匂いに染まれってか?」
「どうどう蒼寿郎ちゃん、クールダウンクールダウン」
ほい、と研いだ小豆を受け取って、また新しい小豆を手渡す。
笊を受け取った小豆洗いは、ふと蒼寿郎のことをじっと見つめると、薄い唇を少しだけ引き結んでこう言った。
「蒼寿郎よ、愛する者を閉じ込めておくのはよくないぞ」
「……は?」
小豆洗いの言ったことが、一瞬理解できなくて眉を跳ね上げた。
一体彼女は、どういう意味で言ったのだろうか。
その一方で小豆洗いは、くるりと振り向いてまた川の中に戻っていく。抱えた笊をそっと水につけながら、細っこい指で小豆をかき混ぜ始めた。
「守るといって、なんでも避けて囲ってしまえば、閉じ込めてしまうのと同じじゃ。相手を見ているようで見ていない。自分の思うとおりに動くだけ。それは人形と同じじゃ」
「おいっ、アオイは人形じゃねぇだろ」
「そうじゃの。今はまだ」
何か含みがあるような言い方をする。小豆洗いは木漏れ日の隙間から見える空を、目を細めて見上げた。
「人間は、なにかに縋らなければ生きられぬ事もある」
ころころと水の流れる音が、虚しく響く。その音に紛れるような小さな声で小豆洗いは言葉を続けた。
「江戸の頃、そうやって人間を守っていた妖怪がおった。人間たちはその妖怪の恩恵に頼り切りになり、考えることを放棄した結果、窮地に陥ったときになにもできず、消滅していった集落を二つほど知っておる。ひとつは雪崩に埋まり、もうひとつは賊に滅ぼされた」
「……」
「葵をそんなふうにしたくないじゃろう」
彼女の話は本当のことなんだろう。長く生きてきた小豆洗いの話し方に、ひどく現実味があった。
「蒼寿郎よ、お主の育った環境では違ったかもしれぬが、人間で言う番というものは、繁殖の域を超えて、お互いを思いやって寄り添うことで成り立つ関係じゃ。そこのところを、よく考えてみよ」
研ぎ終わった最後の小豆を笊から袋に詰め終えると、いくつかに分けた袋の一つだけを持ち上げる。
「ほれ、戻って次を持ってくるぞ」
そう言って歩き出したかと思ったら、少し行ったところで小豆洗いは足を止めた。
「どうした」
小豆洗いは答えない。無言で地面を見下ろしている。
どうした、と背後から覗き込むと、そこには、乱雑に組み合わせたような幾何学模様があった。ただの落書きにしては禍々しい雰囲気があり、近づくのも躊躇われた。
「なんだこれは?」
「これは……」
小豆洗いも眉をしかめる。
蒼寿郎は似たようなものを見たことがあった。
葵の住むメゾンワンダーに、クロエという魔法使いがいる。そのクロエは魔力の込めたインクを使い、魔法陣を使った補助魔法を得意としている。
クロエの書く魔法陣はとても繊細で、地面の模様は似ても似つかないが、なんとなく、同じものを直感が騒いでいた。
「蒼寿郎、火乃香を呼んできてくれぬか」
小豆洗いの声が、一段と低くなった。
――今、“ほのちゃん”じゃなくて“火乃香”って呼んだ。
「早う」
「……わかった」
蒼寿郎の後ろ姿を見送ってから、土に刻まれた文様を見下ろした。毒蛇の鋭い眼光に睨まれたような、嫌な胸騒ぎが足元から登ってくる。
……この牙が葵たちに向かなければよいのだが。
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