Day.10『突風』
「お時間を取らせてすみません」
「いいっていいって。我とそなたの仲じゃろう」
葵とあーちゃんの前を歩きながら、申し訳なさそうに眉を下げる火乃香に、あーちゃんはなんてことないと手を振った。
「葵さんも、大変なご負担をかけてしまうことを承知で、お願いしてしまって申し訳ございません」
「いいえ、あーちゃんでは頼りないので」
すぐに「葵ぃ」とあーちゃんが睨む。
「まずは、娘の状態を見ていただきたいの。あーちゃんなら私よりも詳しく分かると思うのだけれど」
「うむ、任せておけ」
渡り廊下を通った離れの一室。ここです、火乃香は部屋の扉をコンコンとノックした。
◇
案内された部屋に、その子はいた。
女の子ひとりで使うには広すぎる和室には、文机と座布団、着替えの入った藤の籠、そして布団が一組だけ。その布団で、橙色の薄い掛け布団を被って、その子は静かに横になっている。
「
布団からのぞいた耳がぴくっ、と跳ねた。もそっ、と掛布団から顔を出すと、頭を撫でる火乃香の手に、猫みたいに頬をすり寄せた。
「具合はどう?」
「まだだるい」
母や兄と同じ銀色の前髪から、薄紅色の目がちらりと見える。それから葵たちに気づくと、ひゅっと掛布団を引き上げて顔を隠してしまった。
「そなたが火暖か」
あーちゃんが布団の傍に座ると、掛け布団から目だけをのぞかせて、小さく頷く。
「そうかそうか。ちゃんと返事ができてえらいのぅ」
火暖の頭を優しく撫でる。とんとんと胸の辺りを優しく叩きながら、歳はいくつか? とか、食欲はあるか? とか、好きな物は何か、とか聞き出している。さすが、長い歳月を人間と一緒に暮らしていたあーちゃんだ。小さな子どもの扱いが上手い。
「ふむ……確かに妖力が極端に少ないな」
「そうでしょう?」
「妖力の多いほのちゃんの娘とは思えん。息子と比べてもかなり少ないな……」
顎に手を当てて、考えるようにふむと目を伏せる。正直、こんなふうに真剣な表情をするあーちゃんを見るのは、葵は初めてだった。
「残っておる妖力も、身体全体に行き渡っておらん。ところどころに溜まって、力の流れが滞っておる。あとでゆっくりマッサージでもしてやろう。それに、これなら葵が持ってきたものなら食べやすいかもしれん」
あーちゃんに目配せされて、葵も頷いて用意する。保冷剤がたっぷり入った保冷バッグから、今朝作った小豆のムースを出した。
「葵さん、それは?」
不思議そうに火乃香が尋ねる。
「小豆を使ったムースです。生クリームを使ってて、冷たいので、具合が悪いときでも食べやすいかと思って」
「火暖よ、食欲がないだろうが、少し食べてみてくれぬか?」
火暖は口元まで布団を引き上げて、どうしようかと視線を彷徨わせていた。そんな火暖の頭を、あーちゃんが優しく撫でる。
「大丈夫、葵の作るものに悪いものは入っておらん」
「火暖ちゃん、どうか一口だけ食べてくれるかな。それで気に入らなければ食べなくていいから」
木の匙で掬ったムースを口元に運んでやると、ちょっと躊躇ったけれど、ぱくっとさっきまでぼんやりしていた両目が、ぱっと大きく開いた。
「……おいしぃ」
「やった……!」
火暖の反応に、思わずギュッと手を握る。昨日の夜に徹夜して作ったかいがあった。
「うむ、えらいのぅ。これくらいなら、全部食べれそうか?」
こくん、と頷く。細い手をついて、ゆっくりと体を起こすと、葵から器を受け取った。ちょっと手が触れると、ぱっと頬に紅葉が散って少し恥ずかしそうに俯いた。そのちょっと恥ずかしがる様子が、弟だけしかいない葵の心をギュッと掴んだ。
(可愛い〜! こんな妹ほしかった〜!)
「こうして少しずつじゃが、体に取り込んでいけば、そう簡単に妖力が消えるなんてことはならんじゃろう」
心なしか、顔色が少し良くなった気もする。あーちゃんが言ったのを聞いた火乃香は、安堵に目を細め、涙をこらえるように顔を両手で覆った。
子どもを思う母親の様子に、胸の奥がじんわりと熱くなって、つい葵まで泣き出しそうになってしまう。
「よかった……あーちゃん、葵さん、本当にありがとうございます」
「火織のおかげじゃな。あの子が我を探し当てなければ、間に合わんかったかもしれん。良い息子を持ったな」
◇
桜の花びらが、風に舞って目の前をひらりと横切る。その軌道をなぞるように視線を動かし、蒼寿郎は腕を組みなおした。離れの入口で、柱に寄りかかって葵たちが出てくるのを待っていた。
廊下を歩く足音が聞こえ、薄く瞼を開く。歩いてきたのは、薄水色の袴を着た火織だった。二人の間にピリついた空気が流れ、火織の白い耳がピンッと立った。
「貴方は行かなくてよかったんですか?」
「本当はついて行くつもりだった。けど……」
一旦言葉を切る。
さっき葵に言われた言葉を思い出して、少しだけ目を細めた。
「……アオイが来るなって」
これは葵なりの配慮だとわかっていても、やっぱり傍を離れることには不服があった。
火織は少し驚いたように瞬きをすると、きっと真っ直ぐ蒼寿郎を見据えた。
「本来、狸の匂いのする者を入れることはできません。しかし、今回は有事のことであります。そのことを念頭に、俺たちの街で、騒動を起こさないよう、お願い致します」
「アンタら次第だ」
二人を分かつように、一陣の風が吹き降りた。
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