Day.9『ぷかぷか』

 ふわっ、と強い風が吹き付けて桜の香りが身体を包み込む。


(この季節に……桜の花?)


 結界が張られていた桜の木は、すっかり緑の葉で覆われていたはずなのに。

 風に細めた視界に薄紅色の吹雪が見える。前を歩く蒼寿郎の姿が見えなくなりそうで、咄嗟に手が伸びて、彼の袖口を掴んだ。

 それに気づいた蒼寿郎は、空いている方の腕を葵の肩に回して、ぐっと抱き寄せてくれる。安心させるように「離れるな」と低い声が耳元に聞こえた。


 吹き付けていた大量の桜の花びらが、葵たちを取り囲むように舞い上がって大きな渦を作り、視界が完全に薄紅色に覆われる。

 その時、耳元で穏やかな女性の声がそっと囁いたように聞こえた。


「――ようこそ、狐の里へお越しくださいました」


 ◇


 薄紅色に覆われた視界が、ぱっと開ける。澄んだ青空の下に、桜の花びらがちらちらと舞っているのが見えた。


「わぁ……!」


 いつの間にか葵たちは、小高い丘の上に立っていた。背後には大きな桜の樹が立っていて、頭上には枝が広がっている。そして、丘の下には古風な町並みが見下ろせた。


「こんな町があるなんて」


 なるほどのぅ、とあーちゃんが腕組みして町を見下ろす。


「桜の樹の間に結界を張って、転移の術を上手く組み込んでおったのか」

「流石は小豆洗い様。その通りでございます」

「にしては、町が少し古めかしい。最新の町並みにせんかったんか? そっちの方が便利じゃろうて」

「それはですね……おっと、いけないいけない、早くお連れしろと言われておりました。その説明は、歩きながらで失礼します」


 穂緩が先導して、葵たちも丘を降り始める。降りやすいように小さな階段をゆっくりと降りていくと、段々と町の細かいところが見えてくる。


「どうぞ、こちらでございます。あぁ、足下にお気を付けくださいませ」


 穂緩に案内されて町の中を歩いていき、日本庭園を思わせる庭に通される。桜の花びらが浮かび、鯉が泳ぐ池にかかった橋を渡る。やがて、大正浪漫を連想させるような、美しい洋館のような建物が見えてきた。

 その建物の入り口で、大きく手を振る影が見えた。


「あーちゃん! みなさまも、ようこそいらっしゃいました」


 綺麗な薄紅色の着物に、焦げ茶色の袴の裾を翻して駆け寄ってきたのは、銀色の長い髪の女性。頭には白い狐の耳、袴の後ろではふわふわの狐のしっぽが三つ、嬉しそうに揺れている。


(もしかして、この方があーちゃんの友達の……?)


「おわ~! ほのちゃ~んっ!」

「久しいのぅ! ちと老けたか?」

「いやぁねぇ、そんな百年やそこらで老けないわよ」

「ウソじゃよ、相も変わらず綺麗じゃのう」

「今更取り繕っても遅いわよ」


 火乃香の両手を取って、くるくると子どものように回り出す。あーちゃんよりも火乃香の方が年下だと話に聞いていたが、こう見るとあーちゃんの方が年下に見えてくる。


「ガキみてぇだな」

「わ、そーちゃん聞こえるって」

「もう聞こえとるぞぃ」


 火乃香は咳払いをひとつして袴を払うと、葵たちに向かってゆっくりと頭を下げた。


「皆様、この度はご足労いただきまして、ありがとうございます。私はこの大野の地の狐たちを束ねております、火乃香と申します」


 それから葵の方を見ると、懐かしそうに目を細めて微笑みかける。


「こんにちは。あなたが百合さんの娘さんね」

「え」

「ふふっ、あなたのお母様とは、半田の権現山にいた頃に何度かお会いしているのですよ」

「そ、そうだったんですか。葵といいます。よろしくお願いします」

「えぇ、こちらこそ」


 改めて、妖怪に関する母の顔の広さに驚くばかりだった。


「それと、そちらの方が狸の……」


 火乃香の視線が蒼寿郎の方に向けられる。言いかけた火乃香の声を遮って、蒼寿郎は睨みをきかせた。


「狸が来て悪いか?」


 一触即発か、と思われた。

 けれど、蒼寿郎の前に歩み出た火乃香は、葵の時よりも深く頭を垂れた。


「いいえ、咎めているわけではありません。ですが、狐の中には狸に警戒心を持ち、よく思わないものも多くいるのは事実でございます。非礼がないよう、私も言い聞かせましたが……万が一、町の者のご無礼がありましたら、遠慮なく仰ってください」


 思っていた対応とまったく違っていたようで、身構えていた蒼寿郎は、面食らったように瞬きをする。穂緩の態度とは異なり、おもっていたよりも火乃香は狸の存在に寛大で、葵もほっと胸を撫で下ろした。


 

 葵たちはそれぞれ個室を用意してもらっていて、案内された部屋は綺麗な和室で、一人で使うには十分すぎるほどに広かった。

 部屋の隅に荷物を置き、空気を入れるために丸い障子の窓を開ける。


「わっ……」


 ヒュウっと強い風が吹いて、桜の花びらが部屋の中に舞い込んだ。


「外は七月なのに、桜の花がこんなに見られるなんてなぁ」


 火乃香さんの館の二階、町を見渡せる部屋からは、綺麗な桜の群れが見えた。遠く離れているけれど、ここまで桜の香りが漂ってくる。華やかで儚くて、少し切ない香りだ。

 ここに生息する桜は、九頭竜桜と呼ばれている。ダムに沈んだ村や集落に生息していたものを、ダム建設の際、苗木のいくつかをこの町に持ち込んで保護したのだ。そしてその際、一部の村人たちも一緒に移住してきた。ここの町の人々はその子孫で、妖狐と人間、そして双方の血が混じった人たちなのだと、穂緩さんが教えてくれた。

 村はダムに沈んだけれど、村人たちは別の異空間で、この地と共にあったのか。人間と妖怪が共に暮らしている、最たる模範だ。


「……きっと素敵な街なんだろうなぁ」


 もし火織の妹さんの件が終わったら、蒼寿郎と一緒に回ってみたいものだ。

 リンリン、とノック代わりの呼び鈴が入口の当たりで鳴った。続いて「葵様、よろしいでしょうか」と穂緩の声がする。


「穂緩さん、なにかありましたか?」

「火乃香様がお呼びしております。早速で申し訳ございたせんが、小豆洗い様とご一緒に、お越しいただいてよろしいでしょうか」

「はい、わかりました」


 部屋に向かう前、あーちゃんに言われたものをキャリーケースから持ち出して部屋を出た。

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