Day.3『鏡』
青年は迷いながらも、手元の紙切れと周りを照らし合わせながら、歩いていく。そのあとを、葵たちはある程度の距離を保って進む。運が悪く、青年が向かう先に葵の住居があるのだ。
(うーん……ちょっと気まずい、かも)
なんとなく隠れながら、そろそろと静かに歩いていく。先程神社で顔を見た同士だからか、ここで顔を合わせるのは何となく気恥しさが勝る。家はもうすぐそこだから、すぐに駆け込んでしまえば分からなくもないか。
そう思ってたとき、青年が足を止めた。
紙切れと照らし合わせて見上げていたのは、葵の住むシェアハウス、メゾンワンダーだった。
「え?!」
思わず声が出て、咄嗟に手で口を塞いだ。
幸い、青年には聞こえていなかったようで、ほっと胸を撫で下ろす。
「うちに用事なのかな……」
こっそりとあーちゃんに聞いてみるが、葵の心配とは裏腹に、あーちゃんは平然とした顔をして「さぁな」と言い放った。
「葵んところは、結構いろんな人種が集まっておろう? 妖狐が来てもおかしいことではないな」
「まぁ、確かにそうだけど……」
口を濁したが、あーちゃんの言う通りだ。
メゾンワンダーには、葵を含めて十二人が共同生活している。そのうち半数は霊感を持っている。葵と同い年の
「たんまり妖力を持ってる葵がいる時点で、変化の苦手な妖狐なんぞ珍しくないじゃろう。ほれ、行くぞ」
「えぇ、今?」
「じゃないといつまでたっても帰れんがね」
袖を引っ張られて、しぶしぶ葵も出ていく。
と、案の定、青年は葵たちに気づくと「あ……」と控えめに声を上げた。変な気まずさにお互い無言で頭を下げる。しばしの沈黙の後、先に口を開いたのは青年の方だった。
「先程はどうも。あの、もしかして、ここの人……?」
「はい。そうです。えっと、もしよければ、取り次ぎますが……」
「あ、ありがとうございます……」
人見知りをするタイプなのか、それとも人に頼むのが苦手な人なのか、青年は軽く目をさまよわせてから、意を決したようにまっすぐにこちらを見た。
「あの、ここに『アズミ』という人はいますか?」
「『アズミ』……?」
「はい。『明』るいに、水が『澄』むとかいて、『
丁寧に、名前に使われている漢字まで教えてくれる。
メゾンワンダーはは若者……それも学生向けのシェアハウスで、葵のクラスメイトも暮らしている。シェアハウスなので、寮というよりも家族のような関係性で、住人全員が苗字でなく名前で呼びあっている。
だけど、メゾンワンダーに『アズミ』という名前の住人はいない。
――心当たりはあるけれど。
言っていいものなのか、頭の中で悶々としていたとき、隣であーちゃんが口を開いた。
「お主、狐じゃろう」
「え……」
「それもまだ百も生きておらん、赤ん坊じゃのぅ」
ぎくっ、と青年の肩が跳ねる。
葵もまた心臓が跳ねた。そんなことを平然と道の真ん中で言っていいものなのか? いや、あーちゃんなりの考えでもあるのかもしれない。
ふふん、とあーちゃんは得意げに長い小豆色の髪を手で払う。
「『アズミ』は我の名じゃ。それで、妖狐の
あーちゃんの小豆色の瞳が、鏡のように光を反射して妖しい赤色に輝く。普段は人間に溶け込むように態度を軽くしているけれど、そんなあーちゃんだって妖怪だ。ちょっと妖しく微笑むだけで、さらりと花が香るように、妖気が溢れ出てくる。
妖狐の青年は、少し気を張るように体に力を入れている。そういえばさっき、百も生きていない、とあーちゃんは言っていた。あーちゃんは優に百は超えているから、そりゃあ緊張するだろうな、と不憫に見えてきてしまった。
「あの、立ち話するのもなんですから、どうぞ入ってください」
「え……」
葵、と窘めるようにあーちゃんも見上げてくる。
「中でゆっくり聞いてあげようよ。込み入ったことみたいだし」
変化も得意でない中、わざわざ人間の街に出てきたのは、それなりの理由があるはずだ。
青年が恐る恐るあーちゃんの反応を伺っている。ふむ、とあーちゃんは考えるように目を伏せていたが、今度は葵が窘めると「ま、葵がそう言うなら」と開き直ったように手を振った。
「というわけじゃ、小狐。中で用件を聞こう。大丈夫大丈夫、取って食ったりせんから、安心せぃ」
そう言ってあーちゃんは玄関に向かった。
「あの、ありがとうございます」
「いいえ、こちらこそ、うちのあーちゃんがすみません」
葵も頭を下げると、緊張して強ばっていた彼の表情が、ほんの少しだけ和らいだように見えた。
「慣れない世界で、あんな威圧的なこと言われたら、誰だって警戒しますよね。私がいる限り大丈夫なので、どうぞ上がってください」
安心させるように言うと、青年はもう一度、深く頭を下げてから「葵! 早う鍵を開けよ!」と急かすあーちゃんのいる玄関へ向かった。
――どうか、心穏やかなことでありますように。
そう願いながら葵も彼に続き、玄関の鍵を取り出した。
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