Day.2『風鈴』

 商店街を抜けた先、メゾンワンダーの北側に位置する場所に、こぢんまりとした神社がある。帰り際にあーちゃんが「ここの氏神うじがみに挨拶に行きたい」と言い出したのもあって、葵たちはその神社を訪れていた。


「ん、この音……風鈴か」


 神社の境内に入ると、しゃらしゃらと美しい音が反響して聞こえてくる。見ると、参道の脇にたくさんの風鈴が飾られて、涼やかな音を立てていた。


「あ、もう風鈴祭りか」


 毎年この時期になると、夏のじめっとした空気を吹き飛ばすように、たくさんの風鈴が飾られる。この近くに古くからあるガラス工房が手作りして、その一部は近所の幼稚園の園児たちによって絵付されて、奉納される。そして風鈴の短冊には、願い事を書くと叶うという噂まである。


「ほぅ、これは涼しげで良いのぅ」

「風鈴っていいよね」

「うむ、昨今は風鈴の音にさえわずらわしさを感じる者も増えたが、やはりこの音は良い」


 今、葵たちが住む地域の氏神様が祀られているその神社は、緑が多く程よい静けさに包まれた、居心地のいい場所だった。


「ん〜、良い気が満ちておる」


 緑に囲まれた参道を歩きながら、あーちゃんは気持ちよさそうに深呼吸をする。夕涼みにきたのか、ベビーカーを押している若い母親と、すれ違いざまに軽く会釈えしゃくを交わす。ここはサンダルやヒールの人や、車椅子やベビーカーでも楽に参拝できるように、参道の両側は砂利ではなく石畳になっていて、バリアフリーが充実している。


「こんな良い場所で子育てできるのは、幸いじゃのぅ」


 ベビーカーを見送りながら、あーちゃんは感慨深く頷いた。


「ふふ、我の可愛い娘が、こういう場所で元気にしとるのもまた僥倖ぎょうこう。良いご縁じゃろうな」


 拝殿には先客がいて、ちょうどお参りを終えた青年とすれ違う。

 と、なんだか不思議な匂いが漂った。


(あれ、この香り……)


 なんだろうと振り向くと、足元に赤い色のハンカチが落ちていた。


「あの、これ落としましたよ」

「え、あ……」


 青年は慌てて戻ってきて、ハンカチを受け取った。


「すみません、ありがとうございます」


 色素の薄い灰色の髪に、金色の獣のようなつり目をしていた。背が高いから青年に見えたけれど、顔立ちは少し幼く見えて、もしかしたら葵と同じ年頃かもしれない。

 じっと見ていたのが気になったのか、軽く会釈して青年は去っていった。

 小銭入れから賽銭を出しながら、あーちゃんが「気づいたか」と聞いてくる。


「さっきのやつ、狐じゃのぅ」

「えぇ? 狐?」


 もう一度振り返るけれど、その頃には青年の姿は見えなくなっていた。神社の参道に穏やかな夏の風が吹いて、風鈴がチリチリと音を立てているだけだった。


「確かなの?」

「そうじゃな、完全に化けきれてない。影にうっすらしっぽが見えとった」

「え、気づかなかった」

「ふふ、どうやら変化術が苦手なようじゃ」

「もしかして、他所よそから来たのかな?」

「かもしれんのぅ」


 安心せぃ、とあーちゃんは言う。


「狐と聞けば警戒するじゃろうが、悪知恵を働かせるような愚か者ではない。神社になにか頼み事をするくらいじゃ。もしかしたら、他でもない人間の助けがほしかったのかもしれぬ」


 狐と聞いたら、昔から化けて人を騙す存在として周知されている。それは悪戯の範疇はんちゅうで収まるものもあれば、洒落しゃれにならないくらいの惨劇をもたらすものもある。人間が狐を警戒するのも自然なことだ。

 けれど狐の中にも、人間と普通に仲良くしたい者もいるのだろう。先入観のせいでそれが叶わないのは、少し可哀想にも思えた。


「ま、すべて推測に過ぎんがな」


 あーちゃんが背を向けて、葵もそれに続いた。



 その後は何事もなく参拝を終え、今度こそ家路につく。すっかり日も傾いて、住宅街の路地は茜色と影色が混ざって不思議な雰囲気に包まれていた。

 今日のうちに一宮へ帰ると思っていたあーちゃんだったが、腹が減っただの、女性を一人で帰らせるなだの、なんだかんだ言って、結局葵のところに泊まりに来ることになった。


「あれ、あの人……」


 ついさっき神社で見た後ろ姿があった。何かを探しているように、きょろきょろと左右を見て回っている。

 ふむ、と隣であーちゃんが腕を組み、片足の先をトンと地面に打った。


「これも氏神の巡り合わせかもしれぬのぅ」


 やけに楽しそうな笑みを浮かべるあーちゃんをよそに、何事もないようにと葵は氏神様に祈るのだった。

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