乗らない女
朝の通勤ラッシュが始まる少し前。
町の駅の三番線ホームには、決まった顔ぶれが並ぶ。
スーツ姿の会社員。眠そうな学生。イヤホンの人。新聞を読む人。
そのなかに、ひとりだけ、少し異質な人がいた。
年の頃は三十代くらいの女性。
ベージュのコートに、毎日違う色のスカーフを巻いている。
手にはいつも小さな文庫本。
本を読むわけでもなく、ただ静かにページを開いたまま、目を閉じて立っている。
彼女は電車が来ても、乗らない。
列が動き、乗客が押し寄せ、電車が出ていくと、彼女はそっと目を開ける。
そして閉じかけた本を、ゆっくりとカバンにしまって、また静かに歩き出していく。
「なんなんだろうな、あの人」
会社員の僕は、その様子を毎朝、気にしているわけではない。
でも、気がつけばいつも、同じ時間、同じ場所にその姿があるのが当たり前になっていた。
ある雨の朝。傘の群れのなかで、その人の姿がなかった。
「どうしたんだろう」
ふと、思ってしまった自分に驚いた。
数日後、彼女は戻ってきた。
けれどその日は、文庫本を持っていなかった。
そのかわり、手にしていたのは古い手紙のような紙。
誰かから届いたものだろうか。それとも、自分宛てに書いたのだろうか。
彼女はそれを広げて、目を閉じたまま、しばらくじっと立っていた。
電車が来て、行って、彼女がまた静かに歩き出そうとしたとき、僕はとうとう声をかけていた。
「…いつも、読書ですか? 」
彼女は驚いたようにこちらを見た。
けれど、怒った様子も不審そうでもなく、むしろ、ほっとしたような表情だった。
「ええ。ここでしか、読めないんです」
「ここじゃないと、だめなんですか? 」
「駅って、誰もが何かを始めたり、終えたりする場所でしょう。私はここに来ると、ちゃんと前に進める気がするんです」
彼女は、少し照れくさそうに笑った。
それは、なんということのない笑顔だったけれど、不思議と心に残った。
その日から、僕も少しだけ変わった。
新聞をやめて、本をカバンに入れるようになった。
電車が来る前のほんの数分、ホームに立つ時間が、少しだけ楽しみになった。
季節が巡り、ホームには春の風。
彼女は今日も、少しだけ目を閉じて、静かに本を読んでいる。
「また、読んでるんですか? 」
「ええ、今日は詩集です。風の音がぴったりで」
そんな他愛のない会話が、いつもの朝に、ほんの少しの色をつける。
そして電車が来て、彼女は今日も乗らずに、ゆっくりと歩いていく。
「また明日」
その背中を見送りながら、僕も電車に乗り込む。
毎日が同じではないことに、少しだけ気づきながら。
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