楓の手紙

夕方の風が、少し冷たく感じられるようになった頃。


楓は小さな赤いポストの前で立ち止まった。

ポケットの中には、一通の手紙がある。

封筒には宛名を書いた。でも、切手は貼っていない。


駅までの道を少し遠回りすれば、このポストの前を通る。

「きょうこそは」と思いながら、何度も来た場所。


けれど、今日もまた手紙はポケットの中にある。

ポストの口に入れる、たったそれだけのことが踏み出せない。


「お元気ですか」


手紙の書き出しは、ありきたりな言葉。

でも、そのあとが続かなかった。

書いては消し、書いてはやめ、ようやく綴った言葉は、なんだか自分にもどかしくて。


伝えたかったのは、後悔でも、謝罪でも、未練でもない。

ただ、いなくなってしまった人に、ちゃんと自分の言葉を届けたかった。


「もう、いないのにね」


ポストの口を見上げながら、楓はつぶやく。


もう二度と返事が来ない相手に、こんなにたくさん言葉を考えて、選んで、整えて。

それでもまだ、手紙は誰にも読まれていない。


通り過ぎていく人たちの足音。

カラスの鳴き声。

街が夕方の色に包まれていく。


ふと、ポケットの中の手紙を取り出す。

少し角が折れて、持ちすぎてしわくちゃになった封筒。

でも、自分の手の中にあるかぎり、これはまだ「届けていない」想い。


もういいかもしれない、と思う。


もう、ポストに入れなくてもいいかもしれない。

それでも、自分がこの手紙を書いたこと。

それだけで、何かが少し、前に進んだ気がする。


楓は手紙を胸のポケットにしまい、ポストの前から離れた。


そして、まっすぐ駅へ向かって歩き出す。


夕暮れの空は、あたたかいオレンジに染まっていた。

風が頬をなでる。

呼吸を深くする。

少しだけ、軽くなった足取りで。

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