かけうどんをすする
その店は、駅から商店街を抜けた先の角にぽつんとあった。
「手打ちうどん なかむら」と、白い暖簾に小さな文字。
電灯の明かりが、外までうっすら湯気を照らしていた。
店に入ったのは、夜九時すぎ。
仕事が終わったのはずいぶん前だったのに、ただまっすぐ帰るのがつらくて、街をひとまわり歩き回っていた。
今日は何もしていない。
何もできなかった。
誰にも責められていないのに、ずっと責められているような気持ちのまま。
気がつけば、あたたかいものを求めて、その店の前に立っていた。
「いらっしゃい」
厨房の奥から、年配の男性の声。
店内には四人掛けのテーブルが三つと、カウンターが少し。
「うどん、一杯、お願いします」
自分でも声がかすれているのがわかった。
注文したのは、かけうどん。
何も乗っていない、いちばんシンプルなうどん。
しばらくして、湯気と一緒にそれは運ばれてきた。
透き通るだし、つややかな手打ちのうどん、刻んだ青ねぎ。
器を手で包んだだけで、あたたかさがじんわり、指から染み込んでくる。
ひとくち、すする。
…だしの香りがふわっと広がって、塩気の奥に、かすかな甘さがあった。
それだけだったのに、ふいに涙が出た。
なぜかわからなかった。
でも、ぽろぽろと涙が落ちる。
目立たないように、鼻をすすって、ごまかして、
その音すらも隠すように、わざと大きく、麺をすすった。
ずるずるっ、と。
また、鼻をすすって。
また、うどんをすすって。
丼の中の湯気が、目にしみたのだと、自分に言い訳をした。
それでも、うどんは変わらず、やさしい味だった。
「…ごちそうさまでした」
自然にこぼれた一言に、さっきまでの重さがすこしだけ、背中から落ちたような気がした。
会計を済ませて店を出ると、夜風がほんのすこし冷たかった。
でも、体の芯があたたかい。
帰り道、電車の窓に映った自分の顔は、泣いたあとのくしゃくしゃ顔だったけれど、なぜか少しだけ、前よりマシに見えた。
ただのうどんだった。
けれど、もう一度歩ける気がした。
明日は、もうちょっとだけちゃんと生きてみよう。
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