第13章 匿名掲示板の偶然、そして奇妙な一致

親友の葵との会話は、結衣の心に、これまでになかった波紋を広げた。彼女は、自分のPCの知識が、ある種の「盲点」になっていたことに気づいた。これまで、田中悠人のことを「Linuxの達人」として尊敬し、頼りにすることはあっても、それ以上の感情を抱いているとは、無意識のうちに蓋をしていたのだ。しかし、葵の言葉は、その蓋をこじ開けた。田中悠人といる時の心の高鳴り、彼からのメッセージを待つ間の胸の高鳴り、そして、彼が他の誰かと親しくしているのを想像した時の、あの微かな痛み。それらは全て、葵が言うところの「恋」の兆候だったのかもしれない。


学校での田中悠人との距離は、以前と変わらない。PC教室で会えば、文化祭の音響の成功を喜び合い、今後のLinuxのイベントについて情報交換をする。しかし、結衣の心の中では、彼の言葉が、別の意味を持って響いていた。「僕、小野寺さんのこと、好きだ」。その告白が、彼女の脳裏に焼き付いて離れない。彼を見るたびに、結衣は心臓がドキリとするのを感じた。


その日の放課後、結衣はいつものように、自室のPCに向かっていた。自分の感情を整理しようと、無意識のうちに、以前から情報収集のために利用しているLinux関連の匿名掲示板を開いた。彼女は、そこで新しい技術トレンドをチェックしたり、他のLinuxユーザーの悩みを参考にしたりすることが多かった。


何気なくスレッド一覧をスクロールしていると、あるタイトルのスレッドが目に留まった。


「片思いの相手がLinuxユーザーです」


そのタイトルを見た瞬間、結衣は全身に電流が走ったような衝撃を受けた。まるで、自分の心の叫びが、そのままスレッドのタイトルになったかのようだった。思わずクリックして、スレッドの中身を読み進める。


スレッドの投稿者は、ハンドルネーム「Kernel_Panic」。


そのハンドルネームを見た瞬間、結衣は息をのんだ。

まさか。この匿名掲示板で、彼女のPCのピンチを何度も救ってくれた「Linuxの神様」こと、あのKernel_Panicが、このスレッドの投稿者だというのか? 結衣は、指先が冷たくなるのを感じた。心臓が、耳元でドクドクと不規則な音を立てる。


彼女は、震える指で、投稿内容を読み進めた。


最近、気になる人がいます。

彼女もLinuxユーザーで、いつも僕の質問に答えてくれる。

僕は彼女のことを「Linuxの神様」と呼んでいます。

彼女とPCの話をしている時間は、何よりも楽しいです。

彼女が困っていると、放っておけません。

文化祭の準備で、彼女のPCにトラブルがあった時、駆けつけずにはいられませんでした。

彼女の笑顔を見ると、心が温かくなります。

でも、彼女は僕のことを、ただの「PC仲間」としか思っていないかもしれません。

僕は、彼女に告白しました。でも、返事をもらえませんでした。

彼女の気持ちが分からなくて、とても不安です。

こんな僕の気持ちは、重いでしょうか?


その内容を読み終えた瞬間、結衣は全身から血の気が引いていくのを感じた。手が震え、マウスを落としそうになった。そこには、まさに田中悠人との間に起こった出来事が、まるで鏡のように、正確に、そして詳細に描写されていたからだ。


「気になる人がいます」—それは、結衣のことだろう。

「彼女もLinuxユーザーで、いつも僕の質問に答えてくれる」—確かに、結衣は田中悠人からよく質問を受けていた。

「僕は彼女のことを『Linuxの神様』と呼んでいます」—この言葉に、結衣は息をのんだ。自分が田中悠人に言われた、あのチャットのメッセージが、頭の中で再生される。

「文化祭の準備で、彼女のPCにトラブルがあった時、駆けつけずにはいられませんでした」—これは、昨日のデータ消失の件だ。彼の行動と、その時の彼の心境が、まるで結衣の心に直接語りかけてくるようだった。

「彼女の笑顔を見ると、心が温かくなります」—彼の告白の際に、彼が自分への好意を述べた言葉と重なる。

「僕は、彼女に告白しました。でも、返事をもらえませんでした」—昨夜の、あの告白。結衣が、何も答えられなかった、あの瞬間。


結衣は、何度も何度もその投稿を読み返した。信じられなかった。匿名掲示板の、見ず知らずの「Kernel_Panic」が、まさか、身近なクラスメイトである田中悠人だったなんて!


これまでのチャットでのやり取り、文化祭での共同作業、そして、昨夜の告白。全てが、この匿名掲示板の投稿と、奇妙なほどに一致する。彼が、あの「Linuxの神様」だと、結衣が密かに尊敬していた「Kernel_Panic」だったのだ。


驚きと、信じられないという気持ちが、結衣の心を支配した。同時に、これまでの彼の行動の全てが、この投稿によって、一気に線で繋がっていくようだった。なぜ彼が、あんなにもLinuxに詳しいのか。なぜ、いつも的確なアドバイスをくれるのか。そして、なぜ、あんなにも結衣のPCトラブルに親身になってくれたのか。全てが、この「Kernel_Panic」という存在の裏に、田中悠人の結衣への想いがあったと知って、腑に落ちた。


彼の投稿は、彼の内なる感情、これまで結衣には見せてこなかった、彼の繊細な心の動きを克明に物語っていた。彼は、結衣のことが好きで、だからこそ、彼女の困り事を解決したくて、彼女の笑顔を見たくて、匿名で、そして現実世界で、彼女を支え続けていたのだ。


結衣は、顔が熱くなるのを感じた。そして、胸の奥が、ぎゅっと締め付けられた。それは、感動と、申し訳なさ、そして、彼の純粋な気持ちに対する、温かい感情が入り混じったものだった。彼女は、自分がどれほど彼の気持ちに気づいていなかったのか、そして、彼の告白に対して何も答えられなかったことが、彼をどれほど不安にさせていたのかを知り、深く反省した。


スマホを取り出し、田中悠人とのチャット画面を開く。彼の最新のメッセージは、まだ「そっか」で終わっていた。彼の心の中には、この匿名掲示板の投稿のような、繊細で、不安な気持ちが渦巻いていたのだと、結衣は今、初めて知った。


結衣は、彼が「重いでしょうか?」と問いかけているのを読んで、胸が痛んだ。いいえ、重くない。全く重くない。むしろ、その純粋で、一途な気持ちに、結衣は深く感動していた。


彼女は、ディスプレイに映し出された彼の投稿を、何度も何度も見つめた。そこには、彼女が知らなかった、田中悠人の「心のソースコード」が、ありのままに書かれていた。この奇妙な偶然が、結衣の心に、これまで以上に大きな変化をもたらすこととなる。


彼が「Kernel_Panic」だった。その事実は、結衣にとって、彼への感情を再定義する、決定的な「アップデート」だった。これまで、PCの論理で物事を考えてきた結衣の心に、今、紛れもない「愛」という名の新しいプログラムが、強制的にインストールされようとしていた。


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