第5章 共同作業と、近づく距離

田中悠人が音響担当の助っ人として協力してくれることになり、結衣の心は一気に軽くなった。彼が「協力する」と口にした時の、あの控えめな頷きと、ほんの少しだけ柔らかくなった表情が、結衣の胸に温かい光を灯した。文化祭の準備期間は限られている。しかし、田中悠人という強力な味方を得たことで、結衣は「最高の音響」を作り上げられるという確信めいたものを抱いていた。


二人の共同作業は、放課後のPC教室で始まった。普段、静まり返っているPC教室に、カタカタとキーボードを打つ音と、ディスプレイの淡い光が、ささやかな活動の証として漂う。結衣は、まず、お化け屋敷の各エリアで流すBGMや効果音のコンセプトを田中悠人に説明した。


「田中くん、まず、ここは廃病院の入り口だから、最初は不気味だけど、まだ『何か』が起こる前の静かな怖さを出したいの。で、この廊下では、だんだん足音が近づいてくるような…」


結衣は、身振り手振りで、頭の中で描いている音のイメージを懸命に伝えようとした。普段は、自分のアイデアを言葉にするのが少し苦手な結衣だが、Linuxの話題となると、不思議と饒舌になれる。そして、田中悠人は、そんな結衣の話を、いつも真剣な眼差しで聞いてくれた。彼の視線は、結衣の言葉の奥にある、具体的なイメージを探っているかのようだった。


「なるほど。静かな怖さなら、低音域を強調したアンビエントなサウンドに、ごく稀に短いノイズを混ぜ込むのはどうかな。足音は、残響を長めにして、徐々に音量を上げていくと、より不気味さが増すかもしれない」


田中悠人の言葉は、いつも的確で、結衣の漠然としたイメージを、具体的な音響技術へと落とし込んでくれた。彼のアドバイスは、結衣が想像もしなかったような、プロフェッショナルな視点に満ちていた。彼の言葉を聞くたびに、結衣は「なるほど!」と感嘆の声を上げていた。


二人はまず、フリーの音源サイトを巡り、お化け屋敷に使えそうな素材を探し始めた。心臓の鼓動、遠くで聞こえる呻き声、軋むドアの音、そして、得体の知れない金属音…。膨大な量の音源の中から、イメージに合うものを探し出す作業は、まるで宝探しのように楽しかった。


「これ、いいかも! 古い病院の、錆びたベッドがきしむ音だって!」


結衣が興奮気味に音源を再生すると、田中悠人は耳を傾け、冷静に分析する。


「うん、悪くないね。でも、もう少し高音域を削って、音の輪郭をぼかせば、より不気味さが増すんじゃないかな。Audacityで試してみようか」


そして、いよいよ音源の加工と編集に取り掛かった。結衣は、Audacityというオーディオ編集ソフトの使い方を、田中悠人に教わりながら、一つずつ丁寧に操作を覚えていった。音のカット、貼り付け、エフェクトの追加、ノイズ除去…。最初は戸惑うことばかりだったが、田中悠人は決して急かすことなく、結衣が理解するまで、何度でも 根気よく説明してくれた。


「このイコライザー、もっと細かく調整できるはずだよ。ここで周波数をいじると、音がクリアになったり、こもったりするんだ」


田中悠人の指が、結衣のPCの画面上で、Audacityの複雑なインターフェースを軽々と操作していく。彼の指の動きは、まるで熟練の職人のようだった。その手つきを見ていると、彼がどれほどLinuxやPCの世界に精通しているかが、ひしひしと伝わってきた。


また、ある時は、LMMSという音楽制作ソフトを使って、お化け屋敷のBGMを一から作り上げる作業にも挑戦した。


「こっちのシンセサイザーの方が、ホラーっぽい音が出せるかな。試しに、この波形をいじってみてごらん」


田中悠人は、結衣が興味を示しそうな機能をピンポイントで教えてくれる。彼は、単に指示するだけでなく、結衣自身に試させることで、彼女のスキルを伸ばそうとしているようだった。その優しさと、教育的な視点に、結衣は感動すら覚えていた。


普段はあまり感情を表に出さない田中悠人だが、PCの話になると、驚くほど饒舌になった。彼の口からは、Linuxのカーネルの話から、各種アプリケーションの特性、さらにはプログラミング言語の進化についてまで、ありとあらゆる知識が飛び出した。彼の言葉は、結衣にとって、まるで新しい世界への扉を開いてくれる呪文のようだった。


「このディストリビューションのパッケージ管理システムは、aptとdnfで全然違うんだ。それぞれのメリットとデメリットがあってね…」


田中悠人が熱心に話す姿を見るたびに、結衣は彼の新たな一面に触れた気がした。これまで、彼を「クラスの隅で静かにPCを弄っている人」としか認識していなかった結衣にとって、そのギャップは新鮮で、そして、彼の人間的な魅力として、少しずつ結衣の心に染み込んでいった。


共同作業を始めて数日が経つと、二人の距離は急速に縮まっていった。放課後のPC教室で一緒に作業をするだけでなく、帰りの電車の中でも、チャットアプリで技術的な質問を送り合うようになった。


結衣:「田中くん、今日の効果音、あの部分、もっと音量を上げたら、さらに怖さが増すと思うんだけど、どうかな?」


田中悠人:「良いアイデアだね。Audacityで調整してみよう。ちなみに、残響も少し長めにしてみると、幽霊が消え去るような雰囲気が出せるかもしれない」


時には、技術的な話題から少し逸れて、他愛ない会話をすることもあった。


結衣:「田中くんって、いつもお昼ご飯何食べてるの? 私、最近、学食のカレーにハマってるんだ!」


田中悠人:「…パン、かな。こだわりはない」


田中悠人の簡潔な返答に、結衣は思わずクスリと笑ってしまった。彼のそんな人間らしい一面に触れるたびに、結衣の心は、じんわりと温かくなった。


彼と話していると、なぜか心が落ち着いた。どんなに難しい技術的な問題に直面しても、田中悠人が隣にいれば、きっと解決できる。そんな、不思議な安心感がそこにはあった。


互いにPCの画面を見つめ、ヘッドホンを共有しながら音源をチェックする。小さなモニターから漏れる光が、二人の顔を照らす。時折、目が合うと、結衣は心臓がドキリとするのを感じた。それは、これまで感じたことのない、甘く、そして少しだけ切ない感情だった。


結衣は、この共同作業を通じて、田中悠人の優れた技術力だけでなく、彼の思慮深さや、物事を丁寧に教える姿勢、そして何よりも、Linuxに対する深い愛情を知ることができた。彼といると、自分が知らなかった世界が、どんどん開かれていくような気がした。


文化祭の準備期間は、まさに二人の絆を深めるための時間だった。PC教室の片隅で始まった小さな共同作業は、やがて、結衣の心の中に、彼への特別な感情を芽生えさせることとなる。それは、単なる「Linux仲間」という枠を超えた、新しい関係の始まりを予感させるものだった。

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