第6章 秘密のチャット、そして芽生える感情

文化祭のお化け屋敷の音響制作は、結衣と田中悠人の共同作業のおかげで、目に見えて進捗していた。放課後のPC教室で共にヘッドホンを共有し、無数の音源を試聴し、AudacityやLMMSの複雑なインターフェースを操作する日々。その中で、二人の会話は、技術的な深い議論だけでなく、次第に個人的な話題にも及ぶようになっていた。


「田中くんって、普段、どんな音楽聴くの? お化け屋敷のBGM、こんなにホラーなのに、なんか意外…」


ある日、作業の合間に結衣がふと尋ねた。田中悠人は、少しだけ考えてから答えた。


「…特にジャンルは決まってないかな。でも、複雑なリズムとか、変わった音色のシンセサイザーの音とか、そういうのが好きだ」


彼の返答は、やはり簡潔だったが、その中に彼の音楽に対する独特の視点が見え隠れしていた。結衣は、そんな田中悠人の意外な一面を知るたびに、彼のことがもっと知りたくなるのを感じていた。


共同作業を始めて数週間が経ち、二人の間には、PC教室の閉鎖的な空間だけではない、新たな繋がりが生まれていた。それが、チャットアプリでのやり取りだった。当初は、作業中に発生した疑問や、追加の音源について連絡を取り合うための、 純粋に技術的なやりとりだった。しかし、いつしかそのチャットは、日中の学校生活では交わすことのない、二人の「秘密の場所」になっていった。


夜遅く、自室のベッドの上で、結衣はスマホを手にしていた。ディスプレイには、田中悠人とのチャット画面が映し出されている。


結衣:「田中くん、今日のAudacityの操作、ありがとう! おかげで、あのノイズ、綺麗に消せたよ!」


田中悠人:「どういたしまして。ノイズ除去は、周波数帯域の分析が重要だからね。慣れればもっと早くできるようになるよ」


最初はこんな風に、ひたすら技術的な会話が続いていた。けれど、ある夜、結衣は少しだけ、個人的な質問をしてみたくなった。


結衣:「ねぇ田中くんってさ、どうしてそんなにLinuxに詳しいの? なんか、私よりずっと前から触ってる感じがするんだけど」


メッセージを送った後、結衣は少しドキドキした。こんなプライベートな質問、彼がどう思うだろう?


数分後、田中悠人から返信が来た。


田中悠人:「別に。独学だよ。小学校高学年の頃から、父のPCを借りて触ってた。Windowsの不具合が多くて、自分で何とかしようと調べ始めたのがきっかけかな。それでLinuxに辿り着いた」


その返信に、結衣は驚いた。彼女自身も、お父さんの影響でPCを触り始めた口だ。そして、Windowsの不具合からLinuxに移行したという経緯も、全く同じではないか。


結衣:「え! 私も、お父さんの影響でPC触り始めたんだ! で、Windowsが重くてLinuxにたどり着いたのも、一緒!」


共通点を見つけたことに、結衣はひどく興奮した。まるで、これまでバラバラだったパズルのピースが、カチリと音を立ててはまったような感覚だった。


田中悠人:「そうなんだ。それは偶然だね」


彼の短い返信の中に、ほんの少しだけ、彼なりの喜びが込められているように、結衣には感じられた。それから、結衣は堰を切ったように、自分のPC遍歴を語り始めた。初めてPCでゲームをした時のこと、Wordで簡単なポスターを作った時のこと、そしてLinux Mintと出会った時の衝撃。


田中悠人は、いつも結衣の話に耳を傾け、時には短い相槌や、的確な質問を返してくれた。彼の返信は、決して感情的になることはないけれど、その根底には、結衣の話を真剣に聞こうとする姿勢が感じられた。


ある夜、結衣は少し大胆なメッセージを送ってみた。


結衣:「私、田中くんのこと、Linuxの神様って呼んでるんだ」


そのメッセージを送った後、結衣は布団の中に顔を埋めた。顔が熱くなるのを感じた。なぜ、こんなことを送ってしまったんだろう? 彼は、きっと呆れるだろう。そう思った。


しかし、すぐに返信が来た。


田中悠人:「神様なんて、大袈裟だよ。僕はただ、興味があることを突き詰めているだけだから」


そして、数分後、さらにメッセージが届いた。


田中悠人:「でも、ありがとう」


その短い「ありがとう」の言葉に、結衣の胸は締め付けられた。それは、これまで彼が見せたことのない、少しだけ照れくさそうな、そして、どこか優しい響きを持っていた。結衣は、スマホを握りしめ、布団の中で何度もその言葉を反芻した。


田中悠人:「小野寺さんの、好きなLinuxのディストリビューションって何?」


そのメッセージに、結衣は思わずスマホを落としそうになった。え? 急にどうしたの? いつもは技術的な質問はあっても、こんな、まるで相手の「好み」を探るような質問は、これまでなかったからだ。


結衣:「え? 急にどうしたの?」


田中悠人:「いや、なんとなく。気になって」


結衣は、彼の意図を測りかねた。けれど、すぐに返信した。


結衣:「私はやっぱりMintかな! 初めて使ったディストリビューションだから思い入れがあるんだ。田中くんは?」


田中悠人:「僕はArchかな。自由度が高いから」


結衣:「そっか」


そんな何気ないやり取りが、結衣の胸を締め付けた。これまで、彼女の頭の中は、常にPCのこと、Linuxのことでいっぱいだった。Linuxは彼女にとって、趣味であり、探求の対象であり、そして、誰にも理解されない、秘密の隠れ家のようなものだった。


しかし、田中悠人という存在が現れてから、その「秘密の隠れ家」は、彼との共有空間へと変わっていった。彼の知識に触れるたび、彼の優しさに触れるたび、そして、彼とチャットをするたびに、結衣の心には、これまで経験したことのない、温かく、甘い感情が芽生え始めていた。


それは、まるで凍てついた大地に、小さな花が咲くような、静かで、しかし確かな変化だった。結衣は、自分の心の中に生まれたこの感情が、何なのか、まだはっきりと認識できていなかった。ただ、田中悠人とチャットをしている時間が、何よりも楽しくて、そして、彼からの返信を待つ間、心臓がドキドキするのを感じていた。


彼女は、スマホを胸に抱きしめ、星空を見上げる。夜空の星々が、まるで未来の暗示のように、キラキラと瞬いていた。Linuxから始まった二人の関係が、単なる「PC仲間」という枠を超え、もっと特別なものへと変化していく予感を、結衣の直感は捉えていた。それは、彼女にとって、これまでの日常を彩る、全く新しい「コマンド」の入力のようなものだった。

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