第2章:生きている

朝、目が覚めると、彼女は台所にいた。

僕のシャツを着て、フライパンを揺らしている。

背中越しに、何かを炒める音と、香ばしい匂い。


まるで、どこにでもある、同棲カップルの朝。


けれど――僕の記憶は、昨夜のあの出来事で止まっている。


血の気のない白い肌、欠損した脚、僕の腕の中で動かなかった少女。

愛して、汚して、眠りについたあの夜。


「……湊(みなと)、起きた?」


彼女の声。

振り向くと、彼女――渚(なぎさ)は、笑っていた。

あの夜と何一つ変わらない、けれど、確かに“生きた”顔で。


いや、それだけじゃなかった。


……脚が、ある。


シャツの裾からすらりと伸びる、健康的な足。

白くて、細くて、骨の形すら透けそうな美しい脚が、ちゃんと、ある。


「あ、コーヒー、ブラックでよかったよね?」


彼女はトンとカップを置くと、隣に座って、微笑む。


脚がある。

声も出る。

料理もできる。

息もしている。


でも、昨夜、確かに――彼女には脚がなかった。


僕は頭を押さえる。

夢? 妄想? 幻覚?

どれでもいい。

この現実の方が、僕にとって“正しい”とすら思えた。


「はい、湊の好きなスクランブルエッグと、トースト、食べて?」


渚はテーブルの向かいに座る。

トーストを片手に指先が器用にバターを塗っていく。


その仕草を、僕はただ黙って眺めた。

彼女の脚は確かに存在していて、しっかりと椅子に揃えられている。


「……いただきます」


僕はトーストをかじりながら、渚の笑顔を見た。

昨夜、確かに死んでいて、僕に汚されたはずの少女が、今、僕の目の前で、何食わぬ顔をして朝食を共にしている。


もうどうでもいい、と思った。


渚が生きているなら、それでいい。

脚があろうとなかろうと。

本当に生きていようと、死んでいようと。

僕の隣にいてくれるのなら――それでいい。


「今日も仕事?」


「……ああ」


僕がネクタイを締めて立ち上がると、渚も立ち上がる。

両脚で、ちゃんと床に立ち、僕に近づいてきた。


「いってらっしゃい、湊」


彼女の唇が、僕の唇にそっと触れた。


その感触は、柔らかく、温かくて――

まぎれもなく、生きている人間のそれだった。

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