第14話 少佐

 一年前の春、二〇二四年五月。


 教室の天井は、春の陽光を吸い込んだみたいにぼんやりと明るくて、見上げていると、なんだか息が詰まるような気がする。


 放課後。チャイムの鳴り終わったあと、教室で氷室ひむろ文寅あとらはひとり、椅子に腰かけていた。


 ふと目線を向けた先――教室の隅。そこに、上田うえだ小宵里こよりがいた。


 窓際の席に身を沈め、何かに没頭している様子だった。指先を細かく動かし、まるで将棋でも指しているかのように、紙のような小さな駒を並べていた。


 アトラは、無意識に立ち上がっていた。足音を立てずに歩み寄り、その手元を覗き込む。


 銀色のガムの包み紙を剣士に折ったもの、小さな薬瓶のような物体、メモ用紙を切った四角い枠。それらが机の上に整然と並べられ、小さな戦場を形作っていた。


「第七戦区、交戦中。ルーン回路不安定、戦力の再編が必要――」


 コヨリは誰にともなく、小さく呟いていた。声は静かだが、言葉には妙な迫力がある。


 アトラは、知らず言葉を吐いていた。


「ふん。配置が甘いな。左翼の遮蔽が手薄だ。

 そのままでは、敵に突破されて殲滅される」


 口にしてから、しまったと思った。だがもう遅かった。声は届き、コヨリは驚いたように顔を上げた。そして――信じられないことに、笑った。


「……司令官?」


 アトラは、咄嗟に照れ隠しのように胸を張った。


「違う。少佐だ。お前が使うには三階級上だが、まあ、許可する」


 自分でもなぜ、そんな口調になったのかわからなかった。でも、口から出てきたそれは、妙にしっくりきて――普段の正しくあろうとするアトラではない、別の自分だった。


 コヨリはその反応を心から楽しんでいた。目を輝かせて、立ち上がると机の前でぴしりと敬礼した。


「ははっ、了解。少佐殿。こちら、“黒雷戦術士”コヨリ! 貴官の命令、しかと受け取った!」


 その姿に、思わず噴き出しそうになった。滑稽だったけど。馬鹿らしかったけど、でも――楽しかった。




 ◆◆◆




「なあ、コヨリ。お前、なんでそうやって堂々と中二病やれるんだ?」


 数日後、ふたりは学校の屋上にいた。立ち入り禁止のフェンスを越えた、その先のコンクリ床。風が強くて髪が舞い上がる。


 アトラとコヨリは、ここを“戦術会議室”と命名した。そこはふたりだけの秘密基地だった。


「中二病じゃない。黒雷の継承者なんだって」

「……その言い訳、五回目だぞ」

「――アトラは、ほんとは変な人なんでしょ?」

「……どういう意味だ」

「だって、本当は軍人キャラなんてやるタイプじゃないでしょ。でも、そうやってくれたのは、私の話にちゃんと合わせて遊んでくれたからだと思ってる」


 アトラは、クラスの中心的ポジション。誰からも頼りにされ、注意される側に回ることはなかった。だが、それは演じていたからかもしれかった。


 本当は、自分の中にも何かコヨリに似たようなものがあった。規律よりも遊びを、理性よりも妄想を、なにより自由を――羨ましく思っていた。けれど、それを表に出す勇気がなかった。だからこそ、コヨリの存在がまぶしくて、そして、どうしようもなく――悔しかった。


 春の光はいつの間にか眩しさを増していた。


 風が少しずつ暖かくなって、コヨリの髪の毛が前よりよくなびくようになった。屋上の「戦術会議室」では、今日もくだらないやりとりと紙の戦争、ときには学校の宿題も――絆の欠片が漂うようなやりとりが続いていた。それは確かに居場所だった。誰の目にも晒されない、ふたりだけの前線。


 そして、七月の上旬のある日。放課後の廊下で、アトラは呼び止められた。


「アトラちゃん、最近あの子と話してるよね」


 クラスの中心にいる女子。いつも周囲に人を侍らせ、華やかに笑う。けれど、今日のその目は笑っていない。


「黒雷ちゃんってさ、ちょっと怖くない? ああいうノートに、呪いとか書いてるって……ほんと引くよね」


 周囲の子たちも「だよねー」と乾いた声で合わせた。誰も悪気はなさそうだった。むしろ気遣いに見せかけて、アトラを正しい位置に戻そうとしているのではないか――――アトラは笑おうとしたが、喉が動かなかった。笑えば何かが壊れる気がして、言葉が出なかった。


 ────どうして、こんなことで。


 足元がふらついた気がした。いつも通り正しい自分でいようとしただけなのに、なぜか心臓がざわついていた。


 屋上に向かう足取りは重かった。


「……今日は、どうしたの?」


 静かに、けれど真っ直ぐな瞳でコヨリは問いかけてきた。アトラは答えられなかった。言いたいことは喉の奥にいくつも浮かんでいたのに、それを声にする勇気がなかった。


 だから、ひどく冷たい声で、こう言ってしまった。


「……そういうの、もう卒業したから」


 目を伏せたまま。自分の言葉が、どれほど鋭いか分かっていたのに。


 コヨリは、しばらく黙っていた。風が彼女の髪を揺らし、影がアトラの足元に落ちていた。そして、ほんの少しだけ口元を歪めて、言った。


「そっか。了解、少佐殿」


 コヨリは敬礼をしなかった。いつもは楽しげにやっていた、あの滑稽で温かいやりとりが、今日はなかった。そのまま、コヨリは何も言わずに去っていった。


 翌日から、彼女は屋上に来なくなった。さらにその次の日には、学校にも来なくなった。アトラは先生から何も聞かなかったが、わかっていた。


 自分が――戦術会議室を、そしてコヨリを、壊したのだと。




 ◆◆◆




 夏が終わり、秋風が吹くころになっても、アトラはあの日のことを忘れることができなかった。


 全部が鮮明すぎて、夢にまで出てくる。


「少佐殿、命令を」


 幻聴のように声がすることもあった。自分には、もうその資格がないと思っていた。あのとき、ちゃんと笑って「気にするな」と言えていれば――あの日のコヨリの瞳を思い出すたびに、どこかで制服のボタンが外れてしまうような、不安と寂しさが胸を締めつけるのだった。

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