1-3
私はあまり家に帰りたくなかった。
特に何があるわけでもないのだけれど、あの家は居心地が悪かった。
春に引越しをして、狭くて古い団地から中古の一軒家に移り住んだのだけれど、なんとなく、まだ昔住んでいた人の気配が残っているような気がして気持ちが悪かった。
母は遅くまで仕事で帰ってこないし、あの家で一人で過ごすのは嫌だった。
私は日が暮れるまでアオイくんの家で過ごした。正直暗くなってから帰るのもそれはそれで億劫なのだけれど。
「イトウさんの家、よくないね。」
ある日、アオイくんは植木鉢に刺さったハサミを撫でながら言った。
私は家にあまり帰りたくないという話をアオイくんにしたことは一度もなかった。
「なんでわかるの?」
「これを見てるとそういうの分かるから。」
アオイくんは自分をぐるりと取り囲むスズランテープを指さして言う。
「そうなんだ。」
「それに、イトウさんいっつも暗くなるまでずっとここにいるから。」
「もしかして、迷惑だった?」
「いや、別に。いたかったら居てもいいよ。」
「よかった。」
アオイくんは私がこの部屋にいることを許してくれているようだった。
「あのね、今の家には春に引越したばっかりなんだけど、なんか嫌な感じがするの。何か見たりしたわけじゃないんだけど人の気配がするっていうか。だから帰りたくなくて。うちは親の帰りも遅いし。」
「イトウさん、ちょっと。」
「え?」
アオイくんが手招きをしている。
しかし、アオイくんの周りにはスズランテープがぐるぐると張り巡らされている。
「この中、入って大丈夫なの、、、?」
「許可があれば。」
それはアオイくんの、という意味なのだろうか。
「・・・・・・失礼します。」
私はスズランテープを跨いで中に入る。
当然ながらその円周は座ったアオイくんが手を伸ばしたら届くような狭さなので、二人の人間が入るには小さかった。
「狭いんだけど、いいのこれ、、、」
近すぎてドキドキする。こんなに近くでアオイくんのことを見たことがなかったから。
横でおろおろしてる私の事なんてどうでもいいみたいにアオイくんは小さな瓶を渡してきた。
「はい。」
「え、何これ。」
私は瓶を受け取る。中には何やら白い粉が入っている。銀色の蓋のついたよく飲食店に置いてあるような食卓塩のボトルに見える。
「見ての通り何の変哲もない塩だよ。」
「なんで、塩?」
食べるのだろうか。
「イトウさんは知らないかもしれないけど、塩にはお清めの効果があるんだ。お通夜の後で玄関で塩を振ったり、あとは商売繁盛のためにお店屋さんの前に盛り塩をしたりね。」
お通夜と商売繁盛の間になんの関係があるのかさっぱりわからなかったけど、とにかく塩はいいらしい。アオイくんはずっと学校に来ないのに物知りだ。
「これを頭から振るといい。ここだとフローリング汚れるから浴室使って。バスタブが空だから。その中で振って。後処理が面倒だから。」
確かに、塩をまいて床がざりざりになってしまったら嫌だろうなと思う。
「わかった。アオイくん、お風呂場まで借りちゃってごめんね。掃除は私がやるから。」
アオイくんは玄関の方を指差した。
「玄関入って左側、リビングからだと右側のドアが風呂だから。」
「ありがとう。じゃあやってみるね。」
私はスズランテープの囲いの中を出て玄関に続く暗い廊下へ向かう。
アオイくんは後ろで手を振っていた。
浴室は白いタイルで覆われていた。バスタブは猫足で、そこにヒマワリみたいなシャワーが付いている。
古いマンションではあるけれど、昔私の住んでいた集合住宅によくあるみたいなプラスチックみたいな浴室ではなく、アメリカのアパートみたいにオシャレで素敵なバスルームだった。とはいえ私はアメリカのアパートなんか見たことがないし、映画かなにかで見たイメージでしかないんだけど。
水周りにも関わらずジメジメとした湿気もカビも汚れもなく、それどころか掃除道具もシャンプーも石鹸も置いていない。まるで生活感がなくてモデルルームみたいだった。
アオイくんはちゃんとお風呂入ってるのだろうか。
でも、アオイくんはいつも清潔感があって、ピカピカの真っ白なシャツを着ていて、髪もサラサラだし、肌だって透き通るみたいに綺麗で、それになんかいい匂いがするので、家のお風呂は使わないで銭湯に行っているのかもしれない。でもアオイくんが銭湯に行っているところなんて全然想像がつかなかった。
こんな綺麗なバスルームに塩をばら撒いてしまって本当にいいのだろうか。私はさすがに申し訳なくなった。
でも、アオイくんがせっかく私のことを思って塩をくれてバスルームまで貸してくれたんだし、使わない方が悪い気がしてきた。
私は乾いたバスタブの中に入り、なるべく塩がバスタブの外に散らばらないように座ると、阿追くんからもらった瓶のふたを開けて塩を自分のあたまから振りかけた。
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