Episode.5...Rainy blue mind in holiday.

 今は夏、僕は夢幻の記憶を思い出す。

 僕の刻んだ歩幅はもっと早く。

 意思は遠く。

 黒い嘲られる過去と決別。

 使い古された言葉で言えば、Beyond the future.

 白い光をそっと取り出す。

 そうだ、あの遠く高い青空の下、砂浜で亜紀はダンスをするように手を伸ばして―――。

 遠い記憶は波のように寄せては返していく。


 白い光が影の濃淡を醸し出し、亜紀と一緒に図書館に入ったあの頃。自動ドアが開くたびに、氷菓の冷気に似た空調が肌を撫でた。館内の匂いは、乾いた紙と糊の気配、レコードの溝に指を這わせたときのような、時代の細い粉末。

 僕は新刊雑誌の棚で、眩しすぎない光沢紙に目を細める。流行のスニーカー、夏の短編特集、レシピの冷やし麺。ページの端をめくると、インクの香りがぶわっと立つ。一方で亜紀は、背表紙の色褪せた小説に指を滑らせていた。ページをめくる手が途中で止まり、視線だけが宙を泳ぐ。

 『―――ねえ、私を彼女にしたら、疲れるでしょ、結構?』

 「既に分かっているんだろう。……僕のこれからの悩んできた道のりを君も知っておくといい。多分、僕の本当の姿が分かるだろうから」

 『―――悩みを隠さず言わないで我慢してきたのって、そんなの疲れないの、ってこと』

 そのとき、彼女の指は本の真ん中に挟まれた栞をきゅっと押さえ、僕の手の甲にそっと触れた。体温は小さな灯りのように穏やかで、僕の脈を数えるみたいに一拍、二拍、間を置いた。返事の代わりに自販機で缶コーヒーを買い、冷たい金属のリングプルを上げる音だけが返ってきた。ふたりで外に出ると、アスファルトの熱気が地面から立ち、空には薄い雲の筋。

 夏は、どこまでも真っ直ぐに、素早い動きで時が回りだして。乱反射する光と僕の思考。そんな静寂と白さに満ちた清冽な日々。


 ひょんなことに友達になった人がいる。それが絵美理だった。

 はじめて会ったのは、駅前の献血バスの陰で配られていたうちわを、同じ柄で同じ角度に仰いだ瞬間だった。「動きシンクロしてますよね、私たち」って笑ったのが、彼女。

 ―――もう好きな彼氏出来たからあなたは友達ねっ、て。

 その宣言は変に潔くて、カラッと乾いた夏の洗濯物みたいに気持ちがよかった。僕は返事をクシャクシャにして、勢いで二人を映画館に連れて行った。

 絵美理は、「えっ、でも彼女さんと映画館行った方が良いんじゃない?」と眉を寄せ、亜紀は「了解」と短く頷いた。僕は亜紀のあの性格を知っている。嫉妬は見せない。代わりに、自分の視点を欲しがる。だからこそ、わざとこのシチュエーションを決めた。彼女は映画の意見が知りたいのだ。是非来てね、と何度も念を押す声音に、少し緊張が混じっていた。


 青空の下、駅のロータリーで君を待つ。改札口の中から君はプレーリードッグのようにちょこちょこ顔を出し、僕を見つけると小さく手を振る。

 やはり君の姿は眩しい―――君を選んでいて、多分僕は僕らしくいられる、そんな気が一瞬よぎる。

 水木亜紀は、今年の初夏にさらに綺麗になった。等身大の王女―――大仰な言い回しは似合わないけれど、背筋の伸び方や目線の運び方、ひとつひとつが丁寧で、そこに気品の根がある。空には白昼の残像みたいな、透けた月。駅には昼前の人波、ベビーカー、キャリーケース、部活帰りの汗の匂い。

 腕を振って挨拶した途端、僕は彼女の手を繋いで、肩に手を回す。そして、肩に回した手をそっと離す。最初こそ戸惑っていた亜紀の表情は、数秒遅れて柔らぐ。受け取り方を学んでいく誰かの顔。僕はその遅れを、ちゃんと好きだと思った。


 「ねえ、近くにカフェがあるから行かない?」

 「いや、そうするよりも、映画館に持ってく飲み物、近くのスーパーマーケットで買う方が良い」

 「ああ、そういう事」

 僕はブラックのコーヒーを選ぶ。苦味は、言葉にしない責任感を代わりに飲み込んでくれる。彼女はミルクティー。タピオカミルクティーは「後で吸い込む時うまく吸い込めないから」と笑って遠慮した。向かいのベーカリーは小麦の甘い匂いが店外まで広がって、パンが並ぶ棚は綿雲の地形図。僕らはちぎりパンを三つ、亜紀は僕の分も考えて、ソースコロッケパンとBBQ風ハンバーガーを選ぶ。包装紙が擦れる音まで、今日はやけに印象に残る。


 店のショーウィンドーを通り過ぎて外に出ると、絵美理がぷんぷん怒っていた。

 ―――あなたの彼女さんになったら、そんな特典が付いてくるんですね。もう! 私にも買って下さいよ、もう。一緒に行くんですから。

 「ただいまより絵美理様は、僕からのサービス受ける場合は有料になりまーす」

 とっさの軽口に、絵美理は得意のいたずら顔で僕の肩を軽く叩く。

 「はい、誘ってくれたお礼にクッキー焼いたんだ」

 リボン付きの小さなバスケット。袋包みのクッキーは、バターの角まで香る。

 「張り切ってチョコミントにしたんだけど、どうかな? そっちにはカモミールを入れてみた。本当は紅茶に入れる予定だったんだけど、余ったから丁度良いかなって」

 カモミールのやわい香りは、夢見心地の枕の端っこみたいだ。味覚の方向感覚が良い彼女に、僕はつい調子に乗ってパフェを奢る。

 店員は気さくで、記念にと、生チョコのネームプレートに「thank you for ○○」と三人分の名を描いてくれた。プレートはすでに角が溶けかけ、バニラやベリーの層に敷かれたソースへ溶け込んで、文字がゆっくり読みにくくなっていく。名前が甘さに紛れる感じが、今日という日の匿名性と親密さを同時に象った。

 「溶けちゃう、もったいない」

 「もったいないは、食べる理由になる」

 スプーンの触れ合う金属音、笑い声、グラスの氷が鳴く音。三人でひとしきり堪能すると、夏の空気はまた外に出るように背中を押した。


 映画館。暗さに目が慣れる間、スクリーンの白は雲の裏側のように広い。ミッション:インポッシブル―フォールアウト―。重低音が腹に響き、誰かの咳ばらいが波紋をつくる。

 「何だか、ストーリーが複雑でよく分からなかったわ」―――絵美理。

 「まさか何重にも展開が凝ってあって驚きの連続だった」―――僕。

 「うーん、映画のチョイス間違えたかな」―――亜紀。

 「どうして?」

 「楽しかったけど、申し訳ない程度にラブストーリーが入っていたのが気に食わないかな。これはエンターテインメントであって、色んな要素が入っていて面白かったけどね。でも、ラブストーリーだったらアニメで見るかなあ」

 その言い方は、好みの問題に見せかけて、本当は「現実の私たち」を見たいという遠回しだったのかもしれない。物語の中で恋が進むのではなく、スクリーンの反射光に照らされた今ここで、歩幅を合わせる練習をしたい。

 「新海誠監督、来年公開らしいし」

 と僕が軽く返すと、亜紀は「うーん」と唸って、膝の上で指を組んだ。彼女の迷いは、たいてい正直で、だからこそ尊い。


 館内は昼前の混雑。ポップコーンの香りは、甘い記憶を強制的に起動させる。僕はハンバーガーのサイズとソースの危険性を計算し、食べるのをやめた。観客の服に飛ばしたら、謝罪の台詞で映画が塗り潰されるから。こういうところで、僕は少し神経質だ。

 上映後、外の光はまだ尖っていた。汗ばむ首筋に風が当たるだけで、救われる。

 「ボウリング、行こ」

 提案したのは絵美理。思いつきの方向感覚が良い。


 ボウリング場は、いつ来ても昭和と令和の境目みたいだ。ワックスの匂い、ネオンの反射、スコアボードの古いフォント。靴のサイズを合わせ、手汗を拭いて球を選ぶ。指穴にぴたりと嵌る感覚は、やる気のスイッチよりも原始的で好きだ。

 「やった、ターキー」

 初手から調子のいい絵美理が、サイダーを片手に跳ねる。

 「すごーい、絵美理さん、半端ないね」

 「でしょー。昔中学時代に小さなボールで腕を鳴らしていたのよね」

 僕は二回ずつ地道にピンを倒し、順々にスペア。フォームはぎこちないが、外し方だけは丁寧。亜紀も同じくスペア。安定感が似ているのは、きっと気質が近いから。

 「リズムで投げるといいよ」

 亜紀が言う。彼女の歩幅は四歩。助走の三歩目で息を吸い、四歩目で吐く。彼女の指先から放たれた球は、レーンのオイルに細い軌跡を残し、静かにポケットへ入る。ピンの弾ける音は、雨上がりの拍手みたいで、小さく、でも満遍なく嬉しい。

 ―――ああー、英吾と来れば良かった。まだ、アイツとだったら盛り上がったのに。

 絵美理がぽろっと零す。英吾、聞き慣れない固有名。

 「誰?」と訊こうとした瞬間、亜紀がふっと僕の前に立ち、投球順を示す。

 後で訊くと、「友達」と一言。

 「どうして友達と来なくちゃいけないのだろう」と僕が言うと、

 「どうでもいいでしょ」

 亜紀の声は、すこし硬かった。嫉妬というより、境界線の確認だ。僕は自分が、誰にどう見られるかより、誰をどう見るかで忙しい人間だと、そこでやっと気づく。


 ゲームの合間、レーン奥でピンを並べ直す機械の動きを眺めていると、ふいに砂浜の記憶が戻ってくる。

 ―――あの日、波は細かく切れて、光はひたすらに正直だった。

 亜紀は裸足で、ダンスのまねごとみたいに手を伸ばし、足指で砂に五線譜を描いた。「ほら、音が見える」って言って、彼女は波の拍を数えた。

 『わたし、綺麗に生きたいの。綺麗って、嘘を吐かないことだから』

 その言葉は、潮が運ぶ塩の粒みたいに、舌の奥でまだしょっぱい。僕が嘘を吐かないために選べる身振りは、いくつあるだろう。手を握る。手を離す。呼吸のタイミングを合わせる。黙る。笑う。―――そして、待つ。


 ボウリング場を出る頃には、ベーカリーで買ったハンバーガーはすっかり冷え切っていた。ソースの油は紙に沁み、パンはぺたんこ。でも、三人で分け合って食べると、不思議と侘しさは笑いに変わる。

 「冷めてると、思い出って味が増えるのかも」

 絵美理の言葉に、亜紀が「それ、名言」と小さく親指を立てる。


 駅までの帰り道、商店街のアーケードは夕方の影で涼しい。射的屋の残骸みたいな夏祭りの装飾が、まだ少しだけ残っている。

 「さっきの英吾って?」

 僕は、とうとう訊く。

 「高校の同級生。なんかね、私の一本筋を見抜くのが早いの。だから競り合うと燃える。恋とかじゃないけど、うまく言えないやつ」

 絵美理の説明は、扉を半分だけ開けて見せるみたいに曖昧だ。

 「じゃあ、今度四人で行けば?」と僕。

絵美理は笑って、「それはそれで、ドラマ過多」と肩をすくめる。

 亜紀は黙って歩く。信号待ちで、手首の内側を指で押す癖が出る。そこに脈があるか、確かめるみたいに。

 「どうかした?」

 「ううん。今日のこと、どんなふうに記憶するのかなって」

 「どんなふうに?」

 「いくつかの白い光に分解されて、ばらばらに保存される気がする。クッキーの匂い、ネームプレートの文字、スクリーンの白、絵美理のストライク、あなたの笑い方。そうやって保存されたものが、時々波みたいに寄せてくるんだよ、たぶん」

 「保存の仕方が上手いね」

 「でしょ」

 彼女は得意げに笑う。僕はその笑顔の保存方法だけ、まだ見つけられていない。目を閉じて焼き付けようとすると、必ず露出オーバーかアンダーになる。適正値が、僕のなかにまだない。


 夕暮れ、駅前。人の影は長く伸び、電光掲示板は遅延も混乱もなく、ただ時間だけを切り分けていく。

 「このあと、どうする?」

 「少し歩こう」

 僕らは脇道に折れ、図書館の裏手の並木道へ向かう。蝉の声は少し落ち着き、代わりに風鈴の音が断片的に漂ってくる。

 「ねえ」

 亜紀が足を止める。

 「私、たぶん面倒だよ。さっき図書館で言いかけたこと、続き。疲れると思う、私を彼女にしたら」

 「うん」

 「でも、面倒って、ほんとは私の誠実さの裏表なんだと思う。嘘を吐かないでいると、面倒の形になっちゃう。あなたの面倒も、私が受けとめたい。だから……」

 彼女は言葉を探し、結局、僕の袖をちょこんと摘んだ。

 「だから、ちゃんと悩んで。私の前で」

 「悩むの、得意だよ」

 くだらない返しに、亜紀は「知ってる」と笑う。

 そのとき、スマホが震え、絵美理からメッセージが入る。

 《今日はありがと。二人とも、いい感じ。英吾はやっぱり呼ばなくて正解。あいつ、勝ち負けでしか見ないから、デートを試合にする男。》

 《次はラブストーリー観よ。現実の。》

 絵美理の軽さに救われる瞬間がある。彼女は場を混ぜ、空気を攪拌し、沈殿しかけた感情に酸素を送る。友達宣言の意味は、こういうところにあるのだろう。


 夜、海に行こう、と僕は言った。駅から数駅、バスに揺られ、堤防に座る。満ち潮は膝下まで湿気を運び、遠くの灯台が十二秒に一度、白いまばたきをする。

 「Beyond the future って言ってたよね」

 「うん。言い過ぎだった?」

 「ううん。好き。未来のさらに向こう側に投げる球、みたいで」

 亜紀は靴を脱ぎ、足首まで波に浸す。水温は昼間の熱をまだ抱いていて、夜風に撫でられると、逆に自分の体温の位置が分かる。

 「私、怖いの。綺麗に生きたいって言ったけど、綺麗の尺度が、時々わからなくなる。誰かの正解で自分を測りそうになる時がある」

「ある」

 「でも、あなたといると、尺度を持ち直せる気がする。あなたの苦さは、誠実の味がするから」

 「ブラックコーヒーのこと?」

 違う。あなたのジョークも、その勘違いすらも苦い―――だから、もう少しだけ、その苦さを分けて」

 僕は海風を吸い込み、吐く。星がまだ少ない。街の明かりが強いからだ。それでも、砂の上に寝転んで目を閉じると、まぶたの裏で、散った塩の粒が星に見える。

 「ねえ、私の面倒みてくれる?」

 「面倒は、等価交換で」

 「じゃあ、あなたの面倒は私が」

 両手を額の上で組んだ彼女の横顔は、夜の硬度でほんの少し大人びて見えた。僕はその輪郭を、指でなぞらないかわりに言葉で覚える。鼻梁の角度、唇の端の癖、まつ毛の影。保存の仕方が分かっていく。


 終バスが近づき、僕らは堤防から立ち上がる。足の裏に砂が貼りつき、歩くたびに小さな星座を崩す。

 「次、何観る?」

 「現実のラブストーリー」

 「それ、入場料いくら?」

 「ちぎりパン三つと、クッキーのチョコミントと、ネームプレート一枚」

 「高いな」

 「思い出は、だいたい高い」

 「君との思い出を切り取るのに何円いる?」

 「ボーダーレスなくらい、もう他人と物の善意によって交換されるんだ、あたしの価値は誰にも測れない。……きっとあなたにだって。蔵人」

 ふたりで笑い、バス停の灯りに向かって歩く。海風の塩が服に少し残る。後ろを振り返ると、波はまた同じ形で寄せてきて、でも、同じではない。白い光はいつも分解され、保存され、また結合をやり直す。


 帰りのバスの座席、窓に映る自分の顔を見ながら、僕は思う。

 僕の刻んだ歩幅はもっと早く。意思は遠く。それでも、並木道の四歩の呼吸に合わせて歩けば、今の僕らには、ちょうどいい。

 黒い嘲られる過去と決別するのは宣言ではなく、数え切れない小さな身振りだ。手を繋ぐ、手を離す、選ぶ、やめる、待つ、笑う。

 Beyond the future―――あの言葉はもう誇張でも虚勢でもない。白い光をそっと取り出し、僕らはたぶん、現実のラブストーリーの入場口に立っている。

 その扉は自動では開かない。押すのでも引くのでもなく、隣の人と目を合わせるだけで、蝶番が静かにほどけるタイプの扉。

 僕は亜紀を見る。亜紀も僕を見る。

 プレーリードッグみたいにちょこちょこ顔を出して確かめたあの朝みたいに、少し可笑しく、やさしく。

 「行こうか」

 「うん」

 足取りは、四歩。

 夏の夜、白い光がまたひとつ、保存される音がした。

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