Episode.3...Road of junction.

 夜風。

 一瞬のparalyzed.

 僕は頭の中でchessをcheck.

鳴りやまぬ心臓の鼓動。

 Clock, knocked down.

Down...Fall out the Sky.


 自然の風が薄桃色の花弁を舞い上げ、深紅の残華が闇に溶け込む。その流れるような瞬間は、卒業式の終わりを告げるようでありながらも、蔵人の胸に深い余韻を残していた。校庭の隅で揺れる花々は、静かに彼の複雑な感情を映し出している。暗い空の下、星がちらちらと光を放ち、彼の心を遠くの記憶へと誘う。


 昼間の体育館は、まだ熱を抱えていた。窓の高い位置に取りつけられた換気口から、かすかな風が動くたび、天井のバスケットゴールの糸の鎖が撫でる音を立てた。壇上では校長の声が規則正しく波を打ち、ときおり拍手が起こる。チョークの粉の匂いとワックスの床が混ざり合い、古いピアノの弦が微かに震える。

 Middle mission.

 合唱は二度くり返された。最後の和音で、隣の席の誰かが嗚咽を飲み込み、体育館の空気が一瞬ふるえるのを蔵人は肩で感じた。


 蔵人は前を向いたまま、自分の手のひらが汗で湿っていることに気づいた。制服のポケットに忍ばせた白いハンカチで拭おうとするが、指が思うように動かない。鼓動が、自分のものとは思えないくらい早い。耳の奥で、吹奏楽部が奏でた行進曲の残響がまだ消えない。拍手、椅子のきしみ、遠くの鳥の声、誰かの小さな笑い声――それら全部が混線して、音は熱の中に沈んでいく。


 視界の隅に、亜紀の横顔があった。整然と並ぶ椅子の列の、少し前。肩までの髪が、微かな風にそよいでいる。首筋に沿って落ちる影の線が美しいと思った瞬間、蔵人は目を逸らした。そうでもしないと、たった数メートルの距離が、世界の果てのように感じられてしまうから。


 卒業式のあと、校門の外に人の波が一気に溢れた。花束や色紙を胸に抱いたクラスメイトたちが、記念写真の輪を作っては解き、またどこかで輪になる。掲示板の前で担任に礼を言う列が伸びて、屋台の甘いものを売る移動カートがなぜか呼ばれて、紙コップを手にした一年生がきゃあきゃあと騒いでいた。空は青く、しかしどこか白んでいて、春の熱源は視界のどこにも見当たらないのに皮膚の下からじんわりと灯っていた。


 蔵人は、校舎と体育館の間の細い渡り廊下を抜け、裏庭に出た。人が少ない。花壇には名残のアジサイが色を薄くし、タンポポの綿毛が風に乗る準備をしている。遠くの一角でヒマワリが背伸びするように立っていた。季節外れだ、と一瞬思う。けれど、ここはいつだって何かが名残り、何かが先行している学校だった。カレンダーと植物が無言で揺れる、そんな残された時が残酷で優しく僕らを殺していくだけの場所だ。

 そのとき、背中から小さな鈴の音が聞こえた。振り返ると、茶色い野良猫が、制服の陰からこちらを一瞥し、すぐに植え込みの下へと消えた。首輪は古く、鈴は鈍く光っていた。鳴りやまぬ心臓の鼓動と、かすかな鈴の音が奇妙に共鳴する。蔵人は思い出す。あの鈴の音は、冬の夜にも、確かに聞いたのだ。


 冬の匂いが空気を染め始めたころのことだ。夕方、教室に斜めの光が入り、黒板に描かれた未完成のグラフの影が机の上に伸びていた。亜紀は窓際の席に座って、指先で器用に折り紙を折っていた。言葉は少なかった。紙の角を合わせるたびに、紙の繊維が小さく軋む。最後に折り上がった鶴を彼女が差し出すとき、彼女はほんの少しだけ首を傾げた。

 Get it, get out, for at the ground.

 「ねえ、これ、きっと効くよ。恋の病の薬になるから」


 冗談めかした声色。けれど、瞳はまっすぐだった。蔵人は頷いたのか、笑ったのか、はっきりとは思い出せない。ただ、鶴の軽さだけは、手のひらの記憶として残っている。軽いものほど、落とせない。落としてしまったら、二度と同じ形には戻らないから。

 その代わりに、高い場所に置いておくことにした。風に乗って運んでいけるくらいの速度で、優しく減衰していく思考が、僕を揺さぶる。


 「ありがとう」と言う代わりに、彼は窓の外を見た。窓枠の先、裸の枝が夕焼けに黒く線を引く。校庭の砂が冷たくなっていく気配。どこかで誰かがリコーダーを練習していて、同じ二小節を繰り返し、またつかえて、また戻る。音は幼いが、真剣だ。残響が廊下に絡みつき、音楽室の扉の隙間から白く息が漏れるように、冷たい空気の上を流れていく。

 Fadeoutしていく、僕らのNoise....


 その日、彼女はもう一つ、紙袋を渡した。茶色い油紙に包まれた小さな焼き菓子。カヌレ、と彼女は言った。外は硬くて、中はやわらかい。焼いた砂糖の匂いがする。フランスのお菓子だと聞いて、蔵人はなぜか、遠い海と古い石畳の街を想像した。置いた指先に伝わる、ほのかな温度。その温度は、季節の境目のようだった。冷たさと温かさが同居する、境目。


 「僕たちの関係って、純粋だよね?」


 彼女がそう言ったのは、その次の週の放課後だった。渡り廊下に積もった枯れ葉が、誰もいないのに急に転がる。風が通り抜けるだけの、静かな音。純粋、という言葉は、蔵人の胸の中で長い長い尾を引いた。うなずけなかった。うなずけば、嘘になる気がした。首を振ることもできなかった。首を振れば、何かを壊すとわかっていた。曖昧に笑ったまま、彼はその言葉を飲み込み、舌の上でころがした。甘くも苦くもなく、ただ透明なまま、喉の奥へ落ちていった。


 ――純粋って、なんだ。


 卒業式が終わり、人の波が薄れていく。蔵人は校門の影で立ち止まり、携帯の時計を見た。時刻の数字は、ただの記号に見える。時間は流れているのに、心は足踏みしている。遠くでバイクの音が鳴り、それは大きくなったり小さくなったりして、やがてどこかへ消えた。


 「蔵人」


 名前を呼ばれて振り返ると、亜紀がいた。花束を抱えてはいない。代わりに、あの冬と同じ紙袋を持っている。制服の襟に結んだ小さなリボンが、風にほどけかけていた。蔵人は反射的に手を伸ばし、リボンの先を押さえて結び直した。指が彼女の喉元に近づく。白い肌の上を、夏の前触れのような微熱が滑っていく。


 「ありがとう」と亜紀が笑った。その笑顔は、たしかに今のものだった。記憶の中の笑顔と、ほんの少し色が違う。現実の笑顔は、光の粒が多い。見る角度によって、影がやわらかく動く。蔵人は一歩下がり、呼吸を整えた。


 「歩こうよ」と亜紀が言った。二人は校門を出て、川沿いの歩道に出た。堤防の上に生えた草は、まだ背が低い。川は底が見えるほどに澄んでいて、小魚が群れを作って泳いでいる。橋の上を渡る風はまだ冷たく、けれど、肌を刺すほどではない。二人の影は長く、足音は少ない。鳩が一羽、足もとまで寄ってきて、何ももらえないとわかると、すぐに去っていった。

 「卒業って、終わりなのかな」と亜紀が言った。「それとも、始まり?」

 「どっちでもない気がする」と蔵人は答えた。「ただの、切り替え。場面転換」

 「映画みたい」と亜紀が笑う。「エンドロールのあとに、もう一つ短いシーンが出てくるやつ」

 「つまり、終わらないってことだ」

 「そう。終わらせないってこと」

 「もう一度、卒業しよう」

 「何から?」

 「僕らの時を」

 川の水面が、光を細かく砕く。水鳥が一羽、着水する瞬間だけ、世界の音が吸い込まれたように静かになる。亜紀は紙袋からカヌレを二つ取り出し、一つを蔵人に渡した。指先に触れる甘い匂い。蔵人は片方を受け取り、もう片方に視線を落とす亜紀の横顔を見た。彼女の頬に、光の粒が跳ねる。

 「逃げようか」と蔵人が言った。自分でも驚くくらい、声は静かだった。

 亜紀は少し首を傾げ、目だけで笑った。「どこへ?」

 「どこか遠く。過ごしやすい場所。熱に囲まれてないところ」

 「そんなところ、あるかな」

 「探せば、ある」

 「探すの、いま?」

 「いま」

 沈黙が二人の間に落ちた。怖さはなかった。不思議と、何も怖くなかった。息を深く吸うと、草の青い匂いが胸の奥に届いた。野良猫の鈴が、ふいに近くで鳴った気がした。振り返ると、誰もいない。鈴の音は、風の音の中にたちまち溶けていった。

 駅まで歩いた。改札で行き先を決めるのではなく、ホームの風の匂いで決めることにした。上り方面は人が多く、アナウンスがせわしない。下りホームは、海の匂いがした。塩と鉄と、まだ見ぬ遠景の湿った温度。二人は下りのホームに降り、やってきた各駅停車に乗った。車内は空いていた。窓際に腰を下ろすと、ガラスに二人の顔が重なった。

 「ほんとに行くんだ」と亜紀が呟いた。

 「行くよ」と蔵人は言った。「戻るのも、行くのも、同じくらい怖いなら、選んだほうがましだ」

 「選択と意思、だね」

 電車は郊外を抜け、色の濃い田畑を横切り、トンネルに入った。暗闇の中で、車内の蛍光灯が白く世界を囲う。窓に映る自分の顔が少し青白く見える。隣で亜紀が、膝の上の紙袋の口を開けたり閉じたりしている。リズムは不規則で、けれど落ち着いていた。蔵人はふと思いついて、制服の内ポケットから折り鶴を取り出した。冬からずっと、そこに入れたままだった。角は少し丸くなり、色はわずかに褪せている。けれど、形は崩れていない。

 「まだ持ってたんだ」と亜紀が目を丸くした。

 「あの高い場所は似合わない。僕らの空を飛べるまで何度も」と蔵人は言った。「軽いものほど、落とせないから、高く遠く」

 彼女は何も言わず、鶴を見つめた。やがて、目を細めて笑った。「じゃあ、もう一羽、増やそうか。帰るとき、二羽で戻ろう」

 「帰るとき、か」

 「いつになるだろうね」

 「知らない。知らないから、いい」

 海が見えた。小さな港のある町で降りた。駅前はひっそりしていて、土産物屋のシャッターが半分だけ開いている。風鈴の短冊が、静かに鳴った。商店街を抜けると、潮の匂いがいっそう強くなる。防波堤の上に上がると、海は薄い灰色で、空との境は曖昧だった。波は低く、規則正しく砂を撫でる。砂浜には、ひっくり返った貝殻と、濡れた木片。遠くでサーファーが二人、波を待っている。待ち時間の長さに比例して、笑い声は短い。

 「ここなら、熱は追いつかないかな」と亜紀が言う。髪が風に持ち上がり、耳があらわになる。小さなピアスが光る。蔵人はその光を、太陽から借りた何かの欠片のように感じた。

 「追いついてきても、しばらく遅れる」と蔵人が答えた。「息継ぎにはなる」

 海辺のベンチに座り、持ってきたカヌレを半分ずつかじった。外側の焦げた甘さと、中の柔らかな舌ざわりが、口の中で交じり合う。初めて食べたときに想像した遠い石畳の街が、今度は現実の波音と重なって立ち上がる。遠いものは近づき、近いものは遠ざかる。視界の奥行きが反転するような、奇妙で心地よい感覚。

 「純粋ってね」と亜紀が言った。「混じりけがない、って意味だって教わってきたけど、最近は少し違う気がするんだ」

 「どう違う?」

「混じってることを知った上で、それでも大切にしたいものを選ぶ感じ。混じりけごと抱える、みたいな」

 蔵人は波打ち際に視線を落とした。水は砂を持ち去り、また置いていく。足跡は消えるけれど、歩いたという事実は、ふたりの膝の角度に、わずかな息の乱れに、確かに残る。「じゃあ、僕たちの関係は」と言いかけて、言葉は風に攫われた。彼女は待っていたが、蔵人は続けられない。代わりに、ベンチの木目を指でなぞる。指先のささくれに、少し痛みが走る。「             」

 遮断機が、鳴った―――。

 Noise,Noise,ring,ringing bells...

 昼が伸び、影が短くなり、海鳥の声が遠くなる。港の掲示板に貼られた小さな観光地図の端がはためき、見知らぬ灯台の絵がちらりと覗く。二人は砂浜を離れ、海沿いの小道を歩いた。温室のようなガラス張りの温浴施設の前を通り過ぎ、古い漁具が積まれた倉庫の影に身を入れると、夏の予感が少し遠のいた。影は冷たい。冷たさは、確かだ。

 「逃げてきて、どうするの?」と亜紀が問う。

 「何もしない」と蔵人は答えた。「息をする。風を吸って、ゆっくり吐く」

 「それ、良いな」と亜紀が笑う。「ちゃんと、贅沢」

 しばらく歩いたのち、海から離れて町に戻ると、小さな喫茶店を見つけた。古い木製のドア、ガラス越しに見える観葉植物。ドアベルの音は、さっきの野良猫の鈴よりも澄んでいる。店内は薄暗く、カウンターの向こうでマスターがゆっくりと豆を挽いている。椅子の脚が床を擦ると、空気が少し起き上がる。

 窓際の席に座ると、空が見えた。雲が一枚、大きく広がり、その縁が光る。メニューは少なく、正直で、迷いがなかった。アイスコーヒーと、レモンスカッシュを頼む。氷の入ったグラスに光が落ち、底で反射して机に水色の揺れが映る。マスターは静かにグラスを置き、必要以上の言葉を置いていかなかった。

 「ここ、いい」と亜紀が小声で言う。「学校の図書室の匂いがする」

 「たしかに」と蔵人は頷いた。「本棚の埃と、紙の匂い」

 「それと、インクの匂い。ノートに新しいページを開いたときの」

 「新しいページ、か」

 会話は、少しずつ深くなる。将来の話はしない。約束も、誓いも、今は置いていく。代わりに、最近見た夢の話や、子どものころ怖かったものの話をした。蔵人は、小学校の体育館で、非常ベルのテストの音を初めて聞いた日のことを話した。音は赤い色をしていて、壁の角を跳ね返って、耳の後ろに刺さった――そう説明すると、亜紀は目を丸くし、それからゆっくり頷いた。

 「私が怖かったのはね」と亜紀が続ける。「プールの底の排水口。誰も吸い込まれてないのに、いつか吸い込まれる気がして。近づくと、心臓が痛くなるの」

 「今は?」

 「今は……まだちょっと怖い。でも、それを話せる相手がいれば、半分くらいは平気」

 「半分で十分だ」

 午後、雲が裂け、光が斜めに差し、町の輪郭がくっきりした。喫茶店を出ると、風は少し温かくなっていた。二人は駅へ向かう道を、ゆっくり戻る。帰るのか、もう一泊するのか、その場では決めない。駅前の小さなホテルの看板に、空室の札がぶら下がっている。商店街の端で、古本屋が店じまいを始める。店先のワゴンに、詩集や写真集が無造作に積まれていて、値札には鉛筆で書かれた数字が並んでいた。

 「この町の夜、どんな匂いがすると思う?」と亜紀が訊く。

 「潮と、油と、茹でたとうもろこしの匂い」と蔵人は適当に言って、すぐに苦笑した。「いや、たぶん違う。もっと薄いはずだ。冷蔵庫を開けたときに広がる、氷の匂いに近い」

 「じゃあ、確かめてから決めよう」

 日が落ち、町の明かりが灯り始める。港の電灯が水面に長い道を描き、釣り人の影がそこに踏み入れては戻る。遠くで、祭りのような音楽が小さく聞こえた。実際には祭りはないのだろう。誰かが車のラジオを大きめにかけているだけだ。音は風に引き伸ばされ、曲の形を失い、打ち寄せる波に混ざった。夜風。鳴りやまぬ心臓の鼓動。耳元で誰かが囁くような、やわらかな騒音。

 ホテルの部屋は狭く、ベッドが二つ。窓を開けると、港の匂いが入ってくる。遠くで、リコーダーの音がした。子どもが練習しているのだろう。あの冬の放課後と同じフレーズが、二小節だけ、何度も。蔵人は笑って、亜紀も笑った。笑いはすぐに静まり、夜が部屋の隅々に広がった。

 「ねえ」と亜紀が横になったまま言う。「純粋の話、続きしていい?」

 「うん」

 「もし混じりけごと抱えるなら、たぶん、痛みも、曖昧さも、入ってくる。私たちはそれでも、選べるかな」

 「選ぶよ」と蔵人は言った。暗闇で、言葉は表情を持たない。だからこそ、嘘が混じりにくい。「選び続ける。毎日」

 「毎日って、大変だよ」

 「大変だけど、短い。今日一日だけなら」

 静寂が降り、遠いエンジン音がかすかに震え、また静寂に戻る。鈴の音がした気がして、蔵人は目を閉じた。猫はここにはいないはずだ。けれど、音は確かに響いた。心臓の鼓動と重なって、音はやがて眠気と入れ替わる。眠りは、潮が満ちるように静かにやってきた。

 翌朝、空は薄い青で、雲が低い。早朝の港は、昨日よりも音が多い。ロープが巻かれる音、氷が砕かれる音、傷ついたペンキの剥がれる音。朝の空気は、熱の兆しをまだ含んでいない。二人はベンチに座り、コンビニで買った紙コップの味気ないコーヒーを飲む。味気なさが、ありがたいと思った。余計なものが、何もない。

 「戻ろうか」と亜紀が言う。声は明るい。「帰るとき、二羽にするんでしょう」

 蔵人は頷いた。帰る、という言葉が、昨日より軽かった。逃避は、現実から切り離すためじゃなく、現実に戻る角度を整えるためにある――そんな気がした。

 電車の窓に、海が後ろへ流れていく。町が近づくにつれ、空気は重くなる。重さは、熱の前触れだ。蝉の声が突然どこからか湧き、まだ初夏だというのに、真昼の真似事を始める。駅に着き、改札を抜け、学校へ続く坂道を上がる。昨日と同じはずの景色が、少しだけ鮮明に見えた。色が一段階濃く、輪郭がくっきりしている。

 校舎に近づくと、体育館の扉が開いていて、湿った空気が外に吐き出されている。誰かがリコーダーを練習している。同じ二小節を、また繰り返す。野良猫が植え込みから顔を出し、鈴を鳴らした。鈴の音は、昨日よりも少し高く聞こえた。蔵人は歩みを止め、ポケットから折り鶴を出す。亜紀が隣で、同じ大きさの紙を取り出し、指先で折り始める。角を合わせ、折り目をなぞり、翼を起こす。二羽の鶴が並ぶ。光が当たる角度で、紙の繊維の筋が見える。二羽はよく似ているが、同じではない。似ているけれど、別だ。その事実が、蔵人には嬉しかった。

 「行こ」と亜紀が言った。二人は並んで歩きだす。熱い季節は確かに戻ってきている。騒音のするバイクが坂を上り、体育館の中の空気は、すぐに夏の匂いを帯びるだろう。春風に残る二つの影は、夏の日差しに短くされ、また夕方には長く伸びる。そのすべてを、受けて立つしかない。

 「亜紀を連れて、早く逃げないと」と昨日の自分は言った。今日の自分は、少しだけ違う言い方をする。「亜紀と一緒に、ここで呼吸しよう。逃げるときは、必要な分だけ。戻るときも、必要な分だけ」

 亜紀は頷いた。笑顔は、冬とも昨日とも違う、今日だけの色をしている。蔵人はその色を覚えようとした。覚えようとして、やめた。記憶は保存ではなく更新だ。今日の色は、今日のままでいい。

 蝉が鳴き始める。合唱の詩音が風にちぎれ、どこかでまた結ばれる。アジサイは色を深め、タンポポは白い傘を飛ばし、ヒマワリは太陽に顔を向ける。ここは多分、熱で囲まれた炎のような光に包まれた学校。けれど、その中心に小さな日陰は作れるはずだ。手のひらほどの、呼吸が整う日陰。二人で、そこに立つ。肩が、少し触れる。触れたところだけ、温度が均される。

 夜風。

 鳴りやまぬ心臓の鼓動。

 Clock, knocked down.

Keep the fire....

 エンドロールは、まだ流れない。流すかどうかは、彼らの選択に委ねられている。選択と意思。鈴の音は、もう恐れではない。合図だ。始まりでも、終わりでもない、場面転換のベル。二人はその音に歩調を合わせ、夏の入口をくぐっていく。太陽の軌道に合わせて、鼓動が振動する。やはり、また暑い夏だ。春風に残る二つの影は、やがて昼の短さを経て、夕方の長さを取り戻す。エンドロールの先にある短いシーンは――海の匂いと、紙の手触りと、二羽の鶴の角度の違いに満ちている。

 彼らは歩く。熱を横目に、風を胸に。昨日より少し冷静に、昨日より少し正直に。逃避の名をした回復を、回復の名をした選択を、選択の名をした日常を。そうして、物語はまだ終わらない。終わらせない。二人の心拍数は、やがて落ち着く。けれど、完全には静まらない。静まらないでいい。鳴りやまない鼓動は、生きている証拠だ。呼吸を合わせるたび、鼓動は少しだけ、優しくなる。優しくなった鼓動が、彼らを次の場面へと連れていく。夏の光の縁へ。冬の匂いの記憶へ。花弁が舞って、残華が溶けて、星がちらちらと光る場所へ――。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る