Episode.1... Time to say goodbye, myself.

 弓張月silver moonが深い夜空に静かに架かる―――、漆黒の密度は大いなる大地を深い藍に染めていく。

 周囲の角度を柔らかな光で投射する。

 放射、現映、明道。

 僕は、夏の濃密な大地を歩く。

 熱気。湿度。柔らかな水溜りの調べが美しい。

 水面が亜紀へ近づくと、波紋を美しく広げている。その光はまるで、夜をキャンバスに見立てた絵画の一筆。キラキラとアスパラガスのサラダみたいな新鮮さが僕と亜紀を慈愛の映光に包んでいた。

 英々の星々がちらちらと輝く。

 ささやかな届けと言うminiatureで出来た流れ星にそっと祈る。

 宇宙に散りばめられた宝石のように舞うオリオン座が背に映り、サザンクロスの遥かな憧れが僕の心を捉える。

 Still the stay alive...

 死角に入ったオリオンはゆっくりと周回軌道で、僕の視界をゆっくりと群像のように胎動する。夜空は無数の点描が息づく僕らの空間となった。その光が瞳に映り込むたび、僕の心の中にも白い明かりが灯る。その輝きが、亜紀の中に潜む心の闇を明るく照らし出してくれればと願う。

 ただ、この時だけ僕らが見て、静かに時が満ちるのを待っていれれば多分、望みは何も思い浮かばないだろう―――?

Stay arise by See-side...

 冷たい夜風が通り過ぎる。風が遠くまで響き、樹々が柔らかなざわめきを立てる。澄み切った空気に包まれながら、僕の手元には水筒。

 キャップをひねる。音が静けさを破り、まるで記憶の扉を開ける鍵のように響く。青々とした草地の香りが心を撫で、失われたものを探し求める行為そのものが、僕を深い思索の旅へと導く。

 体育館倉庫の片隅に置かれた氷が、炎天下の光に溶けていく様子を想い出す。その水滴が地面に落ちて広がるたび、亜紀の驚いた表情が隣で重なる。現実と妄想の境界で揺れる僕の記憶。それは、彼女だけがすべてだと考える自分をどこか空虚に感じさせるものであり、その矛盾が僕をさらに深い孤独へと引き込む。

 道端では黄色く色づいた野草が風にそよぎ、遠くの街灯が点々と輝き、夜の静寂をかき分けるようにその光を放つ。自転車の籠にはレモングラスとアップルティーが香り立つ水筒が乗せられ、彼女とのひとときだけでも心に安らぎをもたらしてくれる。ほろ苦いレモンの香りが、蜜蜂が甘い蜜でも吸うように口に含む。遠くの猫の鳴き声が風に乗り、空虚な夜の静けさにその音色が溶け込んでいく。

「星を見に行こうよ」という彼女からのLINE。頭蓋が心の奥深くまでベルが響き渡り、僕の想いをかき立てる。暗い空の下で瞬く星々、その光が互いの心を繋げる架け橋となる。風を感じながらペダルを漕ぐ僕。亜紀を後ろに乗せて、星々の向こうへ―――。

 残響。四音。福音。

 彼女のバッグの鈴の音がなる。

 風は柔らかに吹き抜け、草地を揺らし、彼女の笑顔がその静けさに溶け込む。「ねえ、このまま心を失わないで、お願いだから。」彼女のその温める心が、まるでお腹の中心に響くビー玉の弾ける音のように僕を包み込む。夜空には風車が回るように星々が広がり、僕らの世界がその光の中に存在している。

 点在する宇宙。星々の瞬く音色は、雪の降る音みたいに、凍った心が温まり融和して、音がキシキシと奏でる一定の安寧が奏でる調和―――。

 そこには僕らの見つけた色鮮やかな思い出のフラグメント。道端でそよぐ植物や夜風が描く静かな動き、それらが僕らの物語を彩り、亜紀の表情を見る。友達のような無邪気な笑顔が僕を少年の頃の無垢な自分へと連れ戻す。その時、僕の心に広がる数々の種が、やがて笑い合える未来へと繋がるフィールドとなることを願って―――。

 叶うだろうか、残雪の残る中僕は、亜紀を自転車に載せて帰るころ、川が、融雪し、僕らを何処までも、宇宙の中に母性を見出す内に、僕らが、僕らの一部だってことでしかなくって、単純な花弁の残るラフレシアみたいな哀れな残滓ではなく、そこに残るのは、光芒。


 ***


 河川敷の端に、夏だけ開く臨時の天文広場がある。芝の上に木製のベンチ、町内会の望遠鏡、紙コップのホットミルク。手作りの星図がボードに貼られ、子どもたちがマーカーで線を引くたび、星の名前は少し間違って覚えられていく。

 僕らは自転車を停め、ハンドルにぶら下がる鈴を指で止めた。亜紀はスカートの裾を押さえ、風に背中を向ける。「寒くない?」と訊くと、彼女は首を振って笑う。

「ね、あそこ、わかる?」

 彼女の指先が空の一点をなぞる。僕は目を細め、ゆっくり辿る。

「……うしかい座?」

「惜しい。こと座」

「全然違うじゃん」

「響きは似てる。響きが似てるだけで、近いって思えるのが可愛いじゃん」

 可愛い、という単語が夜気にほどけ、僕の鼓膜にぶつかって弾ける。僕は頷き、紙コップのミルクを二つ受け取った。

 レモングラスの水筒と、紙コップの甘ったるいミルクにレモンティーと言う組み合わせをしてみた。僕らはベンチの端に座る。


 ベンチの裏で、小学生の兄弟が望遠鏡を取り合っていた。「次、ぼくの番!」――その声に、亜紀が小さく笑う。

「さっきのLINE、送るの、何度も消して打ち直した」

「なんで?」

「“星を見に行こう”が、誘い文句にしては軽いかなって。ほんとはもっと、ちょっと大ごとにしたかった」

「大ごと?」

「“君に会いに行こう”とか」

「やりすぎだわ」

 僕は吹き出しそうになって、こらえた。亜紀の横顔が、いたずらに成功した子どものように輝く。

「でもね、ほんとはね」彼女は紙コップのふちを指でなぞり、声を落とした。「“このまま心を失わないで”って、ずっと言いたかったの」

 風が一段、強くなる。ベンチの背もたれに影が揺れ、僕の胸の奥で何かが小さく鳴った。

「僕も、だよ」

 そう言って、言葉の続きが喉の手前で絡まる。失うものの名前を声に出すのが怖かった。名前にした瞬間、輪郭が生まれ、境界ができる。境界は、いつだって裂け目の予告だ。


 天文広場の端に、古びたプラネタリウムカーが停まっていて、ボランティアの青年が中を覗くよう手招きする。ドームの内側に映る星は少し色が濃く、現実より親切に輝く。

 僕らは靴を脱ぎ、ビニールシートの上に座る。ドームに夜が撒かれ、解説の声が優しく回る。

「七月の夜です。西には春の星座が沈み、夏の大三角が昇ってきます。こと座のベガは、織姫星とも呼ばれます――」

 語尾が風に解け、亜紀の睫毛がひとつ影を落とす。

「ねえ、蔵人」

「うん」

「もし、地球の夜空が全部消えたら、私たち、何見て生きる?」

 唐突な問いだった。僕は少しだけ息を止める。

「多分、互いの目」

「きれいに言うね」

「ほんとだよ。網膜の奥にある光――それ、勝手に“裏側の星”って呼んでる」

「裏側の星」

「うん。誰にも見られてない星座。白目の方じゃなく、黒目のさらに奥。そこに覚えた光は、滅びない」

 亜紀は目を細め、手の甲でドームの暗がりを撫でた。「なら、私、ここから裏側の星集める。君の分と、私の分」

「ふたり分?」

「うん。欲張り?」

「ちょうどいい」

 ちょうどいい――と口にした瞬間、胸のなかで何かがほどけ、ぐっと近づく。僕らの会話は、外の夜より小さく、内側の夜より遠くへ鳴った。


 プラネタリウムから出ると、河面が風にさざめき、街の明かりが砂糖の粒みたいにひとつずつ溶けていく。

 自転車にまたがり、僕はハンドルに手を置く。

「どこまで行く?」

「上流の土手。人少ない」

 亜紀は僕の腰に腕を回す。くすぐったい。空気が涼しくなり、ペダルの回転が呼吸と同期する。

 タイヤが砕いた砂利の音。遠くの踏切の二度鳴る警報。川鵜が水を切る羽音。

 夜は静かなのに、音はあちこちにあり、そのどれもが生きていた。


 土手の上、草が低く刈られ、空が一段と広い。

 僕らは自転車を倒し、仰向けに寝転ぶ。レモングラスのボトルのキャップを開けると、香りが胸を通り、肺の奥に薄い月が沈む。

「昔さ」

 亜紀が話し始める。

「体育館の隅で、氷が溶けるのずっと見てたんだ。部活の飲み物に使うやつ。コーチに“手伝え”って言われてたのに、止まれなくて。水になる瞬間の、あの透明の厚み。生まれたばっかの音がする」

「生まれたばっかの音?」

「うん。まだ名前のないやつ。きっと、最初のうちは全部、音で生まれて音で消える」

「今は?」

「今は、名前が先に来る。名前は便利だけど、時々うるさい」

 彼女は笑い、指で月をなぞる。「ねえ、蔵人。君の名前の欠片、ひとつ、貸して」

「名前の欠片?」

「うん。“大丈夫”ってやつ」

 僕は少し黙ってから、言った。

「大丈夫」

 言葉は短い。けれど、僕の肺いっぱいの夜が、その二音に押し込まれる。

 亜紀は目を閉じ、ゆっくり息を吐く。「ありがと。今夜のは、うるさくなかった」


 雲が流れ、星座の線が少しずれる。

 彼女の指が僕の掌を探し、絡む。冷たい。けれど、血はちゃんと通っている。

「怖いの、私」

「何が?」

「忘れること。嬉しいのも、怖い。忘れたくないから。嬉しいことって、あとで割とすぐ謝りに来るじゃん。“ごめん、わたし忘れられるから、今のうちに”って」

「それ、ずるいな」

「ずるい。だから、今のうちに、たくさん見よう。裏側の星、詰め込もう」


 あくびのような静かな時間が流れた。

 遠くの橋に車の列が流れ、ひとつ、またひとつ、赤い目が曲がる。

 僕は自転車のライトを消し、闇に目を慣らす。

「ねえ、蔵人。世界が終わるとしたら、何が先に止まると思う?」

「家の冷蔵庫」

「現実的ぃ」

「電気止まるでしょ。氷は溶ける」

「じゃあ、世界の始まりは?」

「水筒のキャップを回す音」

 亜紀はふふっと笑い、キャップを少しだけ回す。すこし鳴る。

「ねえ」亜紀は寄り添う。「たしかに、始まった」

「世界と言うか」蔵人は言った。

 「何?」

 「君に渡すための命、かな」

 「命?」

 「渡した分だけ僕と君の命は心理的に繋がっていられる。心の温かさっていうか」

 「今見ている星よりも確かな存在を言えてるね」亜紀はジョークを言った。

 


 そのとき、ふと風向きが変わった。

 山の方から、湿った匂い。

 川面がざわめき、足元の草が低く伏せる。

 僕らは上体を起こし、空を見る。

 三日月に薄いヴェール。星の頭数が一つ、また一つ、抜け落ちる。

「雲、早い」

「ね。……雨、来る?」

 言葉と同時に、一本、空を裂く光。音が遅れて、遠くの山を震わせる。

 僕らは目を合わせ、笑った。「走ろう」

 自転車を起こし、土手を降りる。

 最初の大粒が頬を叩き、アスファルトに濃い丸を刻む。

 雨はすぐに本気を出し、僕らは笑いながら漕いだ。

 水たまりが弾け、タイヤが細い小川を作る。

 亜紀は背中で「きれい!」と叫び、僕は「うるさい!」と笑い返す。

 笑いあうくらいが、時々ちょうどいい調律。


 商店街のアーケードに滑り込み、屋根の下で息を整える。

 シャッターの前に置かれた鉢植えが雨を飲み、電飾の星が水を滴らせている。

 亜紀は前髪を指で絞り、僕の肩に顎を乗せる。息が熱い。

「蔵人」

「うん」

「ありがと。今夜、世界が終わっても大丈夫」

「終わらないよ」

「わかってる。でも、言っとく」

 彼女は指先で僕の掌に文字を書く。

 ——せ・か・い・は・ま・だ・は・じ・ま・り。

 さっきの二音が、指の温度で反響する。


 雨は少し弱くなった。

 僕らは通りを抜け、角を曲がるたび、住人の灯りをひとつずつ覗く。

 テレビの笑い声。風呂場の換気扇。台所で皿を重ねる音。

 世界は終わらない。そんな気配が、誰かの暮らしの隙間にいつも座っている。


 やがて、橋のたもと。

 欄干に小さな祠があり、伏せた蝶の羽のような屋根の下に、濡れた紙垂が揺れている。

 亜紀が足を止め、手を合わせるまねをする。

「何を願った?」

「裏側の星、落とさないように」

「それ、神様困るだろ」

「困らせたい」

 彼女は舌を出し、それから急に真面目な横顔になる。

「蔵人。言いたいこと、言っていい?」

「うん」

「君のこと、好きにならないようにしてた」

 雨音が一段止む。遠くで車の水しぶきが跳ね、僕の心臓が三拍ほど遅れて追いつく。

「……どうして?」

「好きになったら、忘れるのが怖い。さっき言ったやつ。楽しい映画ほど終わっていたくないでしょ」

 彼女は祠の縁に腰を掛け、靴のつま先で水たまりを撫でる。

「でも、今日、星が教えてくれた。忘れたって、残る光があるって。裏側の方に」

 僕は頷き、彼女の隣に座る。

「僕も、同じことを、ずっと――」

 言い切る前に、スマホが震える。

 画面に、短い通知。

 〈停電のお知らせ 本日未明、区域内送電設備の一時停止を行います〉

 停電。

 世界が少し、暗くなる夜。

「戻ろうか」

「うん。でも、遠回りしたい」

「どっちへ?」

「君の裏側、通って」

 答えになってない返事を笑い、僕らは立ち上がる。


 帰り道、雨は小降りになり、道の端で白い花びらが舗装に張りついている。

 僕はふと思い出す。

「ラフレシアってさ、花弁より匂いの方が有名だけど、花びらの縁にだけ、見落とされがちな光、あるんだって」

「何それ、今夜の比喩?」

「うん。哀れな残滓じゃなくて、残る光芒の話」

 亜紀は目を細め、ふっと笑う。「ねえ、その“残る光芒”、私のメモにしていい?」

「いいよ」

「じゃあ、今日の空に光芒さんが」

「さんを付けるべき?」

「付けなくていい」

 笑い合い、足取りが軽くなる。


 アパートの前で、停電はまだ来ていない。

 階段の踊り場に置かれた非常灯が緑に光り、郵便受けが薄く鳴る。

 玄関前で立ち止まり、亜紀が僕の手を離さない。

「ねえ、蔵人」

「うん」

「停電したら、窓からこっち見て。私も見るから。光、落とさない練習、しよ」

「了解」

 彼女は親指で僕の爪をそっと押し、にこりと笑って扉の向こうに消えた。


 部屋に入る。濡れたシャツを脱ぎ、タオルで髪を拭く。

 窓の外はまだ雨粒が走り、信号は働き者のまま。

 やがて――ふっと、音が減る。

 冷蔵庫が黙り、廊下の常夜灯が消え、遠くの交差点が黒くなる。

 停電だ。

 僕は窓を開け、外を見る。

 向かいの棟の四階、亜紀の部屋の窓も開いている。

 暗闇の向こう、二つの白いものがふわりと浮く。

 彼女の手だ。

 左右に、ゆっくり。

 落とさない、の合図。

 僕も両手を掲げ、ゆっくり振る。

 風が入り、カーテンが頬を撫でる。

 暗闇の中で、しばらく手を振り合う。

 やがて、遠くで一枚の看板が小さく鳴り、誰かの笑い声が階段を駆け上がる。

 世界は、止まっていない。


 暗がりが目に馴れたころ、僕は机にノートを開く。

 今夜の出来事、拾い損なった言葉、指でなぞられた“だいじょうぶ”。

 ページの隅に、小さく書く。

 ——裏側の星、二つ。

 ——光芒、ひとつ。

 書きながら、ふいに気づく。

 夜の底で、僕の胸の奥に灯っている白い粒は、さっきより大きい。

 失うことの怖さは、消えていない。けれど、怖さの輪郭が、少しだけやさしくなった。


 窓の外、新月のヴェールが薄れる。

 星の数は、数えられない。

 でも、数えられないことが、今夜はうれしい。

 名前より先に来る音が、まだ世界中に残っている。


 やがて、送電が戻る。

 冷蔵庫が短く咳をし、時計が時を拾い直す。

 僕は窓の向こうに手を振る。

 亜紀の窓からも、ゆっくり、手が振られた。

 落とさない。

 繰り返し、何度も。


 電気の明るさに薄く目を細めながら、僕は思う。

 もし、いつかこの街の夜がすべて消えたとしても、

 僕らの裏側には、ちゃんと星が残る。

 キャップを回す小さな音、氷が溶ける透明の厚み、雨粒が記す濃い丸、交わした“だいじょうぶ”。

 それら全部が、光芒として、僕らの胸の中に。


 そして、いつかまた、

 「星を見に行こうよ」と誰かが言うだろう。

 そのときは、僕は笑って頷く。

 大ごとにしなくていい。

 軽い誘いが、世界を救う夜だってある。


 ——新月Moon glideが、ふたたび空にかかる。

 僕らは、自転車の鈴を指で止め、

 裏側の星を、落とさない。

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