石の心臓

 小夜が石を作業机の隅に置いて帰っていくと、和泉はひとり、椅子に深く沈み込んだ。彼の内側では、制御不能な感情が渦巻いていた。屈辱、戸惑い、そして、得体のしれない恐怖。それは、鉛のように彼の心に重くのしかかった。


 机の隅に置かれた、黒く滑らかな石を、憎しみを込めて睨んだ。彼の指の震えの原因、彼の秩序を乱す混沌の象徴。これを、叩きつけて、砕いてしまいたい。

 

 その石をひっつかみ、握りしめた。

 指先は、また、あの忌々しい震えに襲われた。石を持つ手が、小刻みに痙攣する。だが、彼は、その震えに抵抗するように、さらに強く石を握りしめた。指の関節が白くなるほど、強く。


 震えは収まらない。痙攣する筋肉が、石の硬い表面に押し付けられ、圧迫される。その鈍い痛みが、彼の意識を、怒りや屈辱といった熱い感情から、もっと直接的な、身体の感覚へと引き戻した。彼は、自分の意志とは無関係に震える指先と、

その震えを頑なに受け止める石の、絶対的な静けさとの、奇妙な対峙の中にいた。


 握る力を少しだけ緩めた。すると、汗ばんだ掌に、石のひんやりとした感触が広がった。その冷たさが、彼の頭に上っていた血を、ゆっくりと鎮めていくようだった。初めて、石を「敵」としてではなく、ただの「物」として感じた。その不規則な重み。指先に当たる、微かな凹凸。時間をかけて、川の流れに削られてできたであろう、滑らかな曲線。


 彼はいつしか、石を砕くことを忘れ、ただ夢中になってその感触を確かめていた。指先で、その表面をなぞる。彼の震えはまだ残っていた。それは彼の身体が発する、か細い信号のようだった。疲れている。怯えている。張り詰めすぎている。


 石の、変わらない、ただそこにあるという確かな感触が、彼に、彼自身の状態を知らせてくれていた。


 彼の内なる鉛は、消えてはいなかった。だが、彼はその鉛を、初めて、自分の手で触り、その重さと冷たさをあるがままに感じていた。それは苦痛ではあったが、不思議と孤独ではなかった。



 ♦♦♦



 数ヶ月後、懐中時計の修理は終わった。和泉は、最後のネジを締め、ゆっくりと竜頭を巻いた。


 チク、タク、チク、タク……



 秒針が、滑らかに動き始めた。彼が作り出した、完璧なリズム。だが、その音は慣れ親しんだ音とは、どこか違って聞こえた。




 小夜が、時計を受け取りに来た。和泉は、黙ってそれを差し出した。


 懐中時計を受け取ると、蓋を開け、耳に近づけた。そして、目を閉じ、じっとその音に耳を澄ませている。やがて、彼女の瞳から、一筋の涙がこぼれ落ちた。


「…おばあちゃんの音だ」


 彼女は、そう呟くと、深く、深く、頭を下げた。

 和泉は、何も答えなかった。ただ、彼女から視線をそらし、窓の外の、表情のない空をじっと見つめていた。彼の表情は硬く、何を考えているのか読み取ることはできなかった。


「…代金は、要らない」


 しばらくして、彼は、やっとそれだけを呟くと、彼女に背を向け、作業机に向かった。

 小夜が帰った後、工房は再び静寂に包まれた。



 彼は、机の上に広げられた、別の時計の部品に目をやった。完璧な円、完璧な角度。彼が愛した、秩序の世界。いつものように、革のケースから、愛用のルーペを取り出した。そして、それを右目に嵌めようとして、ふと、その動きを止めた。


 視線は、作業机の隅に、一つだけ転がっていた、あの黒い石に向けられた。


 彼は、ルーペを置いた。


 代わりに、そのありふれた石ころを、そっと拾い上げた。ひんやりとした、確かな重みが、彼の掌に伝わる。その石を、まるで極小の歯車を扱うかのように、慎重に、人差し指と親指でつまみ上げた。そして自分の右の目に、ルーペを当てる時と全く同じ仕草で、そっと近づけた。

 



 石を通して、世界が見えるわけではない。彼の視界は、ただ、黒い石の、不透明な表面に遮られるだけだった。


 だが、その暗闇の中で、彼は確かに聞いていた。不規則で、しかし、力強い鼓動の音を。

 

 その石を目に当てたまま、しばらく動かずにいた。やがて、彼はおもむろに窓辺に歩み寄った。そして、これまで固く閉ざされていた遮光カーテンの端を、ほんの少しだけ、指でつまんで開けた。


 一筋の光が、部屋に差し込み、埃が静かに舞い上がるのが見えた。そして、光と共に、街のざわめきが、微かに、本当に微かに、部屋の中に流れ込んできた。



 和泉は、その混じり合った音と光の中に、ただ静かに佇んでいた。



(了)

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石の心臓 echoo @echoo

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