何に怯えているのですか

 数週間後、忌々しいあの懐中時計の修理に取り掛かった。もはや、それは仕事ではなかった。彼の世界を狂わせた元凶、その混沌の正体を、自分の手で完全に分解し、理解し、そして完璧な秩序の下に再構築することを目指す、執念の闘いだった。


 彼は、錆びついた部品を一つ一つ、薬品に浸した。予測不能な化学反応に、焦燥感が募る。彼の計算通りには、何も進まない。分厚い錆の層を、薬品とブラシで慎重に取り除いていくと、その下から、かろうじて元の形を留めた歯車の輪郭が、まるで霧の中から現れるように浮かび上がってくる。それは、化石を発掘する考古学者のそれに似た、静かな興奮を彼にもたらした。死んだと思われたものの中に、過去の秩序の痕跡を見出す。


 最も困難だったのは、完全に崩れ落ちてしまった歯車の再生だった。設計図はなく、残されたのは、隣接する部品に刻まれた微かな摩耗の痕。彼は、ルーペの下で、その痕跡を何時間も、何日も睨み続けた。それは、失われた古代言語を解読する作業に似ていた。残された痕跡から、失われた歯車の歯の数、直径、そして形を導き出していく。そして、金属の塊からヤスリ一本で、それを削り出すのだ。


 シャリ、シャリ、と金属を削る音が、静かな工房に響く。それは彼に、安らぎではなく、更なる孤独と、現実から乖離していくような、危険な全能感をもたらした。この混沌を支配できるのは、世界で俺だけだ。そんな倒錯した没入感が、彼を支えていた。



 ♦♦♦



 ある日の午後、小夜が、何の連絡もなしに工房を訪れた。



「あの、その後の様子は…」


「まだだ。言ったはずだ、期待するなと」

 

 和泉は、ルーペを外しもせず、吐き捨てるように言った。


「ごめんなさい」

 

 小夜は、彼の刺々しい言葉に怯むことなく、静かに頭を下げた。

 

「実は、もう一つ。これが、時計が入っていた箱の底に入っていました。祖母は、時計と同じくらい、これを大切にしていました。これがないと、あの時計の物語は半分になってしまう気がして」

 

 彼女が、箱の底に敷かれた布をめくると、そこには、黒く滑らかな、手のひらに収まるほどの石が一つ、静かに鎮座していた。


 和泉は、それを一瞥し、吐き捨てるように言った。


「ただの石だ。時計とは何の関係もない」


 小夜は頷いた。


「祖母は、嵐の夜や、心がどうにもならない夜に、よくこの石を握っていました。そして、もう片方の手でこの時計の蓋を開けて、じっと耳を澄ませるんです。まるで、二つの違う音を、心の中で聞き比べるように。そして、ぽつりと言うんです。『これで、私も少しだけ、地面に根が生えた』と」


 その言葉を聞いた瞬間、和泉の内で、何かが切れた。


「馬鹿げている!」


 彼は、珍しく声を荒らげた。


「時間は法則だ! 石ころ一つで変わるような、安っぽい感傷ではない!」


 小夜は、彼の激しい剣幕に驚いたようだったが、やがて悲しそうな目で彼を見つめた。


「あなたは……、何にそんなに怯えているのですか?」


 その瞳は、彼の鎧を貫き、むき出しの心臓に突き刺さった。


 怯えている? 俺が?


 答えは、彼自身が一番よく知っていた。不確かなもの、制御不能なもの、そして、いつか必ず狂い、壊れ、離れていく、すべてのものに。

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