石の心臓
echoo
不協和音の聖域
工房は、時間の墓場のような匂いがした。金属と、古い油と、そして何十年も澱んだままの埃の匂い。時計師の和泉は、その墓場の墓守だった。彼がルーペを右目に嵌めるとき、世界は小さく、そして、静かになった。
彼の記憶の底には、一つの音がある。
幼い頃、病弱だった母の部屋。そこに置かれていた、祖父の古い柱時計。その音は、部屋の静寂の中で、あまりに大きく、そしてあまりに正確だった。母の呼吸は、日によって不規則で、浅く、速く、あるいは、途切れそうに弱々しかった。だが、時計の音は、常に変わらない。
苦しそうな呼吸音と、時計の冷徹な機械音との、不気味なほどのうなり。その二つの音が、幼い彼の耳の中で混じり合い、世界がどのような場所なのかを教えた。母が死んだ朝も時計は、何事もなかったかのように、正確な時を刻み続けていた。
彼は、不確かなものすべてを憎んだ。感情、希望、生命。それらはすべて、いつか狂い、壊れ、裏切る。生命の不規則なリズムを世界から遮断し、気がつけば歯車の完璧な運行を、自分の手で作り出すことに人生を捧げていた。
分厚い遮光カーテンが、工房を外界から守っている。作業机の上の、分解された時計の部品。それだけが、彼の世界だった。
♦♦♦
その日、ドアがノックされた。
彼がドアを開けると、若い女が立っていた。小夜、と名乗った。祖母の形見だという古い懐中時計の修理を依頼しに来たと。
彼女の瞳は、夜の湖のようだった。静かで、底が見えない。和泉がその瞳を覗き込んだ瞬間、不意に幼い頃に聞いた、あの柱時計の音が耳の奥で響いた。冷たく、無慈悲な、あの音が。
彼は、顔には出さず、しかし、確かに狼狽した。この女は、彼の聖域に、忘れたはずのノイズを持ち込んだ。
女が差し出したのは、銀の懐中時計だった。蓋を開けた瞬間、和泉の眉間に深い皺が刻まれた。内部は、海水にでも浸かったのか、酷く錆びつき、固着していた。秩序が、混沌に完全に敗北した、醜い死骸だった。
「修理は不可能だ」
和泉は、冷たく言い放った。
「新品を買った方が早い」
「それでも、お願いできませんか」
小夜は、静かに言った。
「この時計は、祖母の庭の一部でした。祖母は、時計の音を聞きながら、草木と話をしていましたから」
庭。草木。話をする。和泉の理解を超えた単語の羅列だった。
「善処はする。期待はするな」
彼は時計を無造作に作業机の隅に置き、彼女に背を向けた。
その夜、彼は夢を見た。
暗闇の中にいた。湿った、錆の匂いがする。自分の心臓がぎし、ぎしと音を立てていることに気づく。錆びついた金属が、無理やり回る音だ。
音の出所を探ろうと、暗闇を彷徨う。やがて、見覚えのある部屋にたどり着いた。
壁には、あの古い柱時計が掛かっている。だが、その針は止まり、振り子は不気味に静止している。代わりに、部屋全体が、ぎし、ぎしという音で満たされていた。
そして、彼は見てしまった。ベッドの上で、不規則な呼吸を繰り返している影。その呼吸に合わせて、ぎし、ぎしという音が、軋みながら回っているのだ。
止めなければ。直さなければ。
彼は、いつものように、胸ポケットから革のケースを取り出した。だが、震える指で開いたケースの中身は、空っぽだった。
ピンセットも、ルーペも、彼の誇りである道具が、どこにもない。彼は、無力だった。幼いあの日の無力な子供のままだった。
ぎし、ぎしという音が、永遠に続く拷問のように、彼の頭蓋に響き渡る。
翌日から、彼は狂い始めた。
完璧だったはずの指先が、時折、彼自身の意志に逆らうように、微かに震えるのだ。それは、極小の部品を扱おうとする、まさにその瞬間に訪れる。彼の体が、彼に反逆するかのように。
彼は、酒を断ち、睡眠時間を厳密に管理した。工房の床を、何度も水拭きし、塵一つない状態を保った。だが、震えは消えなかった。自分の体が、あの錆びついた時計と同じように、内側から腐り始めていく恐怖に苛まれた。
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