1話 異世界に流された男

 ――地面が柔らかい。


 目を開けると、そこは見知らぬ森だった。


 緑の匂い、鳥の声、草のざわめき。

 さっきまでいたはずの実家のトイレの、あの狭い空間は消えていた。


「……マジか」


 思わず口に出た。

 俺は両手を見た。足を見た。

 そして近くの池に映る顔を見て――固まった。


「……誰だよ、これ」


 顔が違う。

 目つきも輪郭も、明らかに整っている。

 服だって、Tシャツとジャージじゃない。どこかの冒険者風の装備だ。


 混乱していると、ふわりと声が響いた。


「ようやく来たか、読書家さんッピ!」


 振り向けば、そこには――

 金色の羽を持ち、ふわふわと宙を漂う小さな存在がいた。


 リンゴほどの大きさ。目が大きく、全体は半透明の光を帯びている。


「……誰?」


「わたしは、《〇んぴ》ッピ!あなたに仕える案内人ッピ!」


 〇んぴ? 今、名前の前半が濁って聞き取れなかった気がする。


「えっと……なんて?」


「〇んぴッピ! それでいいッピ!」


 ……よく分からないけど、まあいいか。



「おまえは異世界に転移したッピ!」


 はあ? と思ったのも束の間、さらに追い討ちがかかる。


「おまえには特別な力があるッピ。その名も――」


「……漏れそう?」


「違うッピ!! “も連想”ッピ!!!」


「……もれ、そう……?」


 何を言われているのか分からない。

 というか、説明の内容が入ってこない。


「とにかく、おまえはここで役割を持つ者ッピ!説明は後ッピ!」


「いや、説明しろよ!」


「信じるッピ!」


 いや信じられるか! と心の中で叫んだが、

 目の前の小さな妖精(名前の最初は謎のまま)はとにかく前のめりだった。



 そうしていると、ガサガサと草むらが揺れた。


 現れたのは――狼のような見た目の魔物。


「うわ、ちょっと待て無理無理無理!!」


「大丈夫ッピ! おまえの中にあるッピ!出せるッピ!」


「何を!?」


 狼が唸り声を上げ、俺に向かって突っ込んでくる。


「クソ!」


 反射的に両手を前に出し、

 頭の中でなぜか、便器の硬さ、陶器の白さ、冷たい質感――そんなものが浮かんだ。


 その瞬間、俺の体を薄い光の膜が覆った。


「……な、何だ?」


 狼の爪が膜に弾かれ、痛みが来ない。


「やったッピ! それがおまえの力の片鱗ッピ!」


「は? これ、どうなって……」


「まだ説明はできないッピ。でも、おまえなら分かるッピ!」


「分からないよ!? 分からなくて泣きそうなんだけど!?」


 だけど。

 どこか、胸の奥では分かっていた。


 これは、あの“流された瞬間”から始まったものだ。



 こうして俺――真田流之助、34歳、無職、趣味・読書は、

 異世界の森の中、なぜか“トイレ由来の力”を持って立つことになった。


 ……なんでこうなったんだ、本当に。

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