ヒューゴ

「それで、ヒューゴは何か申し開きはあるのかな?何も無ければこのまま、退学だけど」


ロニー先生はにこやかな笑顔で、とてつもなく酷いことを言った。窓からは西日が差し込んで、彼のブロンドがさらに輝いて見えた。誰もが一度は振り返るグッドルッキングな顔があいまって、いつもよりさらに神々しく見える。僕は地面に跪いているので、はたから見た人は宗教画と勘違いするかもしれない。


「その、えっと、僕にも大変な事情があったんです」


土下座をしていた僕は、顔を少しだけ上げた。


「まず、単純になんといいますか、その、ホストファミリーを変えないといけなくなって…」


話は1か月前に遡る。

イギリスの大学で留学生をさせて頂くことになった僕ことヒューゴ18歳は、ホストファミリーガチャに見事失敗してしまった。悪い人たちではなかったと思う。恰幅のいいスマイルの穏やかなテッドと、雑誌モデルのような若々しいメアリー、子どもは1歳の愛くるしいピート。

初日の夕食は、輝くローストビーフで、彼らの暖かい歓迎に僕は感激した。



翌日、家事の仕方や子守りの仕方を1日中一通りじっくり仕込まれたあと(考えたらこの時点で疑問に思うべきだった)、晴れてローレンツ家のベビーシッターを任された。大学へ行っている時間以外、ベビーに拘束されたのである。おかげで僕は友だちなんてできるはずもなく、大量の課題に追われながら夜な夜な子をあやし、休日も育児に勤しむ日々を過ごした。


断れない日本人選手権があったら県代表になれる自信がある。


1ヶ月後、君はもう完璧なベビーシッターだ、あとは任せたとでも言うように、テッドとメアリーはアルゼンチンへバカンスに飛び立ってしまった。現金とクレジットカードの入った革の財布だけを残して。


は?


アルゼンチンがレストランの名前だと大変ありがたかったのだが、翌日も翌々日も帰って来なかったのでやはりワンマンツという単語は嘘ではなかったのだろう。


は???


夜泣き、オムツ替え、離乳食作り、朝昼晩わんわんわわーん。途中で僕が泣きたくなった。

なにが悲しくて大学の授業すっとばしてワンオペ育児しなければならないんだ。


僕は恋人もいたことないし子どももいないが、育児ノイローゼを経験した。スーパーも歩いて40分掛かるし、ピートを抱えながらの激務。最悪である。ごめんね、ピートはかわいい、君は悪くないんだよ。


僕は1週間で痺れを切らし、留学センターへ連絡した。あれやこれやと人が家にやって来て自体は収束した。


なんだか気まづくてテッドとメアリーの顔は見れなかった。僕は悪くない、悪くないはずなんだけど、海外から呼び戻して申し訳ないと思っている自分もいて、それが余計に視線を避ける要因となった。ピートに小さくバイバイをして僕はその家を去った。最後にピートが微笑してくれたことが救いだった。


空きがあるホストファミリーがいないそうで、ひとまずセンターの職員の家に居候することになった。緊急措置で普通はないことらしい。職員さんも表には出していないが、突然人を家に泊めることになってさぞ困惑していることだろう。

職員さんは物腰柔らかく丁寧な日本人だったし、言葉が通じるし、僕は最高な気分だった。職員さんも表には出していないが、突然人を家に泊めることになって嫌なのではないだろうか。泊めると決定づけられた際に、職員さんに一瞬よぎった影のある表情が、僕の心に一抹の不安を残した。


他愛もない話をして、久々の日本食を食べて、職員さんの小ぎれいなフラットの隅っこで床に着いた。やはり彼はいい人だった。イギリスで物価の高い日本食を食べさせてくれるなんて、しかも手作り。僕は現金な奴だ、食べ物ひとつで簡単に人を好きになる。その日の夜はぐっすり眠れた。


柔らかな日差しがレースカーテンから漏れる。

今日から大学に復帰する。たかが1週間、されど1週間。日本にいた頃は授業を一回休むくらいだったら屁でもなかったが、僕は今、留学生だ。ネイティブの5、6倍の努力をしないと課題も仕上げられない始末。


コウデイ・アグリー、じゃなく、カイデン・リグリーは、僕にとって、すごく、鼻持ちならない奴だった。


「ニーハオ、今日もくっらい髪にくっらい色の服着てんな。ますます根暗に見えるぜ」


すれ違いざまに、ニーハオって言ってくる奴はよくいるが、こいつは余計な一言を付け加えてくるタイプの人間だ。おそらくアジア人が嫌いなのだろう。毎回、容姿を貶す嫌な絡みしかしてこない。

たが、ヘタレな僕はなんと言い返したらいいのか分からないので、アグリー、じゃない、リグリーを完全に無視する。下を向いて、壁際に沿って小さく縮こまりながら足を機械的に進める。早く向こうへ行けと祈りながら。リグリーは取り巻きたちとギャハハハハと笑いながら教室の端側に座った。


政治学の授業だった。ディスカッション課題を出され、ランダムなグループ分けをされた。不幸なことにリグリーと同じグループだった。過去の経験則から、何か嫌がらせをしてくるだろうなと身構えた。巧妙なやり口で周囲にバレない程度に仕掛けてきた。


初っ端から、超特急な早口英語を繰り出したのだ。スラング多め、方言強め、ネイティブはうんうん頷いたり、リアクションで否定したりしているが、僕は単語を拾うので精一杯で、議論展開は全然掴めなかった。周りが盛り上がっていく中、一人置いてけぼりになる。気を利かせた隣の女子が質問を振ってくれるも、当たり障りのない一言しか返せない。リグリーにすぐ持ってかれて否定されてそりゃそうだよねという空気になる。グループの議論に入らせない雰囲気をひしひしと肌で感じる。


授業後、僕はトイレの中で意気消沈していた。まだ一限である。死にたい。先程はリグリーのせいにしたが、やはり自分の力不足だ。スピーキングはおろか、リスニングも全然できない自分が悪いのだ。


ああ、もう僕はダメだ。なんの価値もない。

クソゴミイカウンコ……


「ねえヒューゴ、割りのいいアルバイトがあるんだけど興味ない?」

ジョニーが肩を組んで耳打ちしてきた。


「えっ、なに、どんなやつ?」

僕もつられて声を低くして尋ねる。


「先輩から教えてもらったんだけど、最近1人抜けたから空きができたんだってさ。ヒューゴは数学のテストの点数は毎回いいだろ? だから難なくクリアできると思う」


「クリアって何をさ?」


「インテリジェンスの一員になれるかもって話。一回につき、これくらい貰えるって聞いたよ」


ジョニーはプリントの裏に数字を書いた。日本円に換算すると、今は円安が進んでるから50000円だ。破格すぎる値段である。


「えっ、なにこんなに貰えるの?」

僕は目を丸くして紙を見つめた。


「どうだ? 試してみる気になったか?」


今思い返してみると、僕は正常な判断能力が失われていたのだろう。慣れない異国での数多くの挫折が、僕をヤケにさせ、阿呆にさせた。


「やる!!」


 そこから先はとんとん拍子に話が進んだ。全てオンラインで決済されるから、僕も相手もお互い顔を合わせる必要がないし、楽だ。


そんで冒頭に遡るってわけ、あは。

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カタルシスナシ とろし @yorozunoban

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