第3話 ゲコゲコ

「ほわあ!?」


 心臓が喉から飛び出るかと思った。

 秘密の特訓現場を、よりにもよって、この学園で一番知られたくない人物に見られてしまった。クールな私にぴったりのクールな従者、レノーアに。


 まずい。一体いつから? どこから見ていたの? あなたって、ニンジャかなにか? いやいや、それよりも、クールな私を取り戻さねば……!


 公爵家の一員たるもの、目下の者にはとく冷静であれ。長男アラリックお兄様が口を酸っぱくして言っていたではないか。

 頭の中で警鐘がけたたましく鳴り響く。私は持っていた石を慌てて放り出すと、努めて冷静な声を装った。


「ああ、レノーアか。おはよう。少し、朝の運動を、ね。健康にいいと、聞く」


 言ってから気付く。お兄様を意識しすぎて、口調までおかしい。


「おはようございます、お嬢様。朝のお勤め、ご熱心でいらっしゃいますね」


 レノーアは、私の見え透いた嘘には一切触れず、優雅に一礼した。けれど、その真紅の瞳は、まるで獲物を品定めする蛇みたいに、私の全身を上から下まで、ゆっくりと観察している。ヘビに睨まれたカエルの気持ちが、ほんの少しだけ分かった気がする。

 それでも、私は貴族令嬢。カエルになるわけにはいかない。精一杯、睨み返してやった。


「失礼ながら、お嬢様。その鍛錬法はあまり効率的とは言えません。腰に不要な負荷がかかり、本来鍛えるべき筋肉に刺激が届いておりません」


 予想の斜め上から飛んできた発言に、少しだけ安堵する。

 私を捕って食おうとしているわけじゃなかったらしい。当たり前だけど。

 しかし、それはそれとして、聞き捨てならないセリフがあった。


「このトレーニングは間違っているということ? 家の古文書に書かれていた、由緒正しい鍛錬法のはずなのだけど?」


 少しムキになって反論すると、彼女は迷うでもなく、頷いた。


「お嬢様。由来はどうあれ、筋肉の構造は普遍的なものです。例えば、腹斜筋を鍛えたいのであれば――」


 そう言うと、レノーアは土で汚れるのも厭わず、流れるような仕草で地面に横たわった。更に、非の打ち所がない完璧なフォームで腹筋運動を数回、実演してみせる。

 その動きは、まるで精密機械のようだった。


「このように骨盤を固定し、意識を体側に向けるのが基本です」


 すっと立ち上がり、スカートについた土を軽く払う。その一連の動作に、一片の乱れもない。


「ちなみに、正しく鍛えられた腹筋とは──」


 話しながら、ずんずんと近づいてくる。

 そして彼女は、運命の決定打を浴びせてきたのだ。


「──こういうものを指します。一例ですが」


 レノーアは自分が着ている制服のブラウスの裾を、僅かに持ち上げる。

 朝日を浴びて、白い肌の上に浮かび上がった、その光景に。

 私は。


「あ──」


 時間が、止まった気がした。

 今まで聞こえていた、鳥のさえずりも、風が木々を揺らす音も、全てが遠のいていく。

 私の世界に存在するのは、目の前の完璧に鍛え上げられた筋肉のラインだけ。

 綺麗だ、と思った。

 お兄様たちのような、屈強な岩のような筋肉ではない。

 硬そうなのに、やわらかそうで、強そうなのに、優しそうで。

 そう。完璧な調和がそこに。


「す、すばらしい……」


 レノーアのお腹から目が離せなくなっていると「お嬢様?」と、視線を合わされた。


 顔が熱くなる。何故こんなに高揚しているのか。この気持ちは一体、なんだろう。


「さあ、お嬢様。もう一度、今度は正しいフォームでやってみましょう。私が数えますから」


 涼やかな声が、熱に浮かされた私の頭に響く。

 私は、この嵐のような動揺を悟られまいと必死だった。

 クールな私、冷静な私、動じない私。今こそ、総動員だ。


「ああ。よろしく、たのむぞ」


 なんとかそれだけを絞り出し、私は言われるがままに腹筋の体勢をとる。

 でも、もうダメそう。さっきまで見ていた、レノーアのお腹が脳裏に焼き付いて離れない。


「では、一回目。どうぞ」


 私は雑念を振り払うように一度だけ頭を振ると、ええい、ままよ、とばかりに上体を起こした。


「……っぐ」


 でも力が入らない。実は、ずっと前からトレーニングをしていたので、割とへろへろだった。

 結果、私の体は中途半端な位置でプルプルと震え、そのまま重力に従って、どさりと仰向けに倒れた。ばんざい。


「お嬢様」


 静かな声に、びくりと肩が跳ねる。

 見ると、レノーアが私の足元に、音もなく跪いていた。


「これでは負荷が逃げてしまいます。足が浮かないよう、私が押さえておきましょう」


「え、あ、いや、でも……!」


 私の制止も聞かず、彼女の、白い手袋に包まれた両手が、私の両足首を、そっと、しかし確実な力で掴んだ。


 「うひっ」


 情けない悲鳴が上がる。

 足首に触れる、彼女の指の感触。硬すぎず、柔らかすぎない、絶妙な力加減。ひんやりとした手袋の感触とは裏腹に、そこから伝わる熱が、足首から全身へと駆け巡るような錯覚に陥る。


「では、もう一度」

「う、うん……!」


 私は、顔に集まる熱を誤魔化すように、再び上体を起こそうと試みる。

 しかし、今度は足首の感触が気になって、全く集中できない。


「お嬢様。背中が丸まっています。それでは腰を痛めます」


 淡々とした指摘の声。

 次の瞬間、彼女のもう片方の手が、私の脇腹に、そっと触れた。


「意識は、ここへ。この筋肉の収縮を、感じるように」


「グエ────────ッ!」


 カエルみたいな、声が出た。

 脇腹に触れる、彼女の指。布一枚を隔てて伝わる、紛れもない体温。


「お嬢様? お顔が真っ赤なようですが。もしや、もう限界なのですか?」


 レノーアが、心底不思議そうに私の顔を覗き込んでくる。

 違う。違うのレノーア。これは、限界とか、そういうことじゃなくて。いや間違いなく限界なんだけど。

 ……やっぱり、あなたは蛇で、私はカエルなのかも。


 でもそんなことは、言えるはずもなかった。

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