第4話 空の器

 あの衝撃的な朝稽古の後、どうやって寮の部屋まで戻ったのか、あまり覚えていない。

 レノーアの顔をまともに見られなかったことだけは確かだった。内心の動揺を隠すのに必死で、朝食に何を食べたかさえ覚えていない。

 ああ、でも彼女が淹れてくれたハーブティーは美味しかったなぁ。


 授業の準備をしながら、鏡に映る自分の姿をぼんやりと眺める。

 そこにいるのは、小柄で、華奢で、頼りない少女。輝く銀髪と紫の瞳だけが、私がローゼンベルク家の人間であることの証。


 我がローゼンベルク家は、王国において「魔法」の代名詞だ。

『銀薔薇の三竜』と呼ばれる、三人の優秀な兄たちが、それを支えている。

 圧倒的な武の象徴である近衛騎士団の団長、長兄アラリック。王国の頭脳たる宮廷魔術師団の発明家、次兄ユリアン。誰からも愛される華やかな外交官、三兄フェリクス。

 お兄様たちと比べ、私には誇れるものが何も無い。外交力も、天才的な頭脳も、体力もない。

 唯一、魔力は人並み以上にあったけど……それを制御するための力が、私には備わっていなかった。


 10年前、幼い私は──


 ローゼンベルク家の広大な庭園の一角で、一人、魔法の練習をしていた。

 お兄さまたちに褒めてもらいたくて。妹でも力になれると、証明したくて。


(集中して、ゆっくり……)


 わたしは教わった通りに、そっと魔力を練り上げる。

 目の前の小さな噴水に浮かぶガラス玉が、ゆっくりと、本当にゆっくりと、水面から浮き上がった。


「……できた!」


 嬉しくて、思わず一歩、後ろへ跳ねるように下がった。その時だった。

 もともと運動が苦手なわたしの足は、芝生の上で、もつれた。

 ぐらり、と体勢が崩れ、尻餅をつく。


 その瞬間、集中が、切れた。


 ガラス玉へと繋がっていた、か細い魔力の糸が、プツリと千切れる。

 そして、行き場を失った私の魔力が、体内から世界そのものを拒絶するような絶叫と共に溢れ出した。


「────────ッ!」


 音のない爆発だった。

 わたしを中心に、まっ黒の衝撃波が、輪をつくって広がっていくのが見えた。

 衝撃波が通り過ぎた場所から、生命の色が急速に失われていく。青々とした芝生は枯れ草に、咲き誇っていた薔薇は黒い塵に、そして頑丈な石造りの噴水は、まるで千年の時を経たかのように、ひび割れ、崩れ落ちていった。


(こわい、こわい、こわい……!)


 わたしが、転んだからだ。

 わたしが、弱いからだ。

 ちゃんと立っていることすらできない、この貧弱な身体のせいで、わたしの力は、こんなにも恐ろしい結果を引き起こしてしまった。


『リゼロッテ!』


 すぐ近くで、居ないはずのお兄さまの声がした。

 わたしの人生初めての魔力酔いは、強烈で最悪だったけど、誰かと顔を合わせる前に意識を刈り取ってくれたのは、いま考えれば、有難かった。


 ──後になって知ったのは、その時たまたま近くにいた一人の少女が「黒色の衝撃波」に触れ、倒れたということ。

 彼女がどうなったかまでは、分からない。でも、私の実力不足が人を傷つけたという事実は揺らがないのだ。


 そんな絶望の中、家の書庫の片隅で、一冊の古びた本を見つけた。

 古代の「身体強化法」について書かれた、埃をかぶったその本に、私の運命を変える一節があった。


『内なる器(魔力)を空にした時こそ、外なる器(肉体)は最も成長する』


 雷に打たれたような衝撃だった。これだ、と思った。

 私の決定的な弱点を克服する、唯一の道。お兄様たちとは違う方法で、私は私のやり方で強くなる。

 その日から、私の奇妙な特訓が始まった。嘲笑も、魔力酔いの苦痛も、全てはそのための試練。私のこの執着は、劣等感から生まれた、たった一つの、切実な希望の証なのだ。


 *


 大丈夫。私は、間違っていない。


 鏡の中の自分にそう言い聞かせ、私は制服の襟を正す。

 気持ちを新たに、私は最初の授業が行われる教室へと向かった。


 寮の自室の扉を開けると、廊下で待機していたレノーアが、無言で一礼する。半歩後ろから付いてくる彼女の存在感は大きい。だって、あの制服の下には、それはそれは見事な腹筋がついているのだから。この学園で私しか知らない事実だと思うと、少しだけ優越感に浸ってしまう。


 最初の授業は、アリスター・ヴァーリィ先生の「古代魔術理論」だ。この学園で最も難解で、そして最も人気のない授業。重苦しい空気の講義室に足を踏み入れると、いつもの光景が広がっていた。


 教室の前方、一番目立つ席では、コルネリア・アウレリアンが取り巻きの令嬢たちに囲まれ、優雅に扇を揺らしている。私が視界に入ると、扇で口元を隠し、何かを囁いたのが分かった。どうせ、私の悪口でも言っているのだろう。

 このグラマラスで古風な金髪縦ロールは侯爵令嬢だ。私は公爵令嬢という身分だけど、アウレリアン侯爵家が経営を一任されているこの学園内においては、彼女の影響力の方が上というわけだ。まあ、どうでもいいけど。


 一方、窓際の席には、ヴェロニカ・シュタインが座っている。誰とも言葉を交わさず、ただ一人。これから始まる授業の参考書を、既に何度も読んだことのあるものかのような顔でめくっていた。そのストイックな雰囲気には、少しだけ気圧される。男爵家という家柄だけど、先日の実技試験ではトップクラスの成績を残していた。そういう意味では、少しだけレノーアに似ているかもしれない。栗色のショートヘアだし、細身だし、メガネもかけているので見た目は全然違うけど。



 教室の扉が開き、アリスター先生が入ってきた。枯れ木のように痩せた体に、古びたローブ。しかし、その瞳だけが、闇の中の宝石のように、ぎらりとした探究心の光を宿している。

 彼の登場で、騒がしかった教室は水を打ったように静まり返った。


 授業は、淡々と、しかし恐ろしいほどの密度で進んでいく。

 先生は時折、生徒に問いを投げかける。そのほとんどは、優等生のヴェロニカが、澱みなく答えてみせた。


「ふむ。教科書通りの良い答えだ」


 アリスター先生は、そう言って、特に感心した様子もなく頷く。

 そして、彼は教室中を見渡すと、おもむろに、その指先で私を指した。


「――では、ローゼンベルク嬢」


 びくり、と私の肩が跳ねる。

 教室中の視線が、一斉に私に突き刺さるのが分かった。コルネリアの、せせら笑う気配。ヴェロニカの、冷たい一瞥。そして、後ろ側の席で座っているだろう、レノーアの気配。

 彼女はどんな視線を投げているだろうか。失敗はできない。


「君は『無』と『空』の違いについて、どう考える?」


 予想もしなかった、哲学のような問いだった。

 ざっくりとしすぎている。この問いに、正しい答えなど、あるのだろうか?

 ざわ、と教室が小さくどよめく。

 私は、混乱する頭で、必死に言葉を探した。そして、それは私の口から、ほとんど無意識に滑り出た。

 私の信念そのもののような言葉が。


「……空っぽの器には、何かを入れられますわ。無には、何も」


 しん、と静まり返る教室。

 私が何か、とんでもなく的外れなことを言ったのだろうか、と不安になった、その時。

 アリスター先生の口元が、ここにきて初めて、三日月のように歪んだ。それは、心底面白そうな、それでいて、少し不気味な笑みだった。


「……ふむ。面白い。実に面白い」


 先生はそれだけを言うと、何事もなかったかのように、再び黒板に向き直った。

 残された私は、訳が分からないまま、ただ先生の背中を見つめることしかできなかった。

 どうやら私は、とんでもない変人に目を付けられてしまったのかもしれない。

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